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「乾山 見参! 着想のマエストロ」 を読む [美術]

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2015年5月27日~7 月20日まで東京ミッドタウンにあるサントリー美術館で開催された「乾山 見参! 着想のマエストロ」の図録をようやく入手しました。
この展覧会は、「乾山 見参!」というオヤジギャグはいまいちですが、充実した作品が揃った良い展覧会だったと思います。
しかし、実施の時期が乾山の生誕352年目という中途半端な時期です。生誕350年を狙って2013年に行っても良いレベルの展示会だと思いますが、なぜずらしてのでしょうね?

この展覧会は初日に見に行ったのですが、図録は「まあ、次に来た時に買えばいいか...。」と思ってその時は買いませんでした。ところが、その次の展覧会の時にサントリー美術館のショップに行って確認すると、図録はすでに売り切れたとのこと。しまった! という感じです。しょうがないので、ヤフオクで探してようやく入手することができたいう次第です。

この図録の巻頭に、乾山研究の第一人者である竹内順一先生が、「乾山焼の技法と意匠を考える」という一文を寄せています。これがなかなか興味深い内容なので紹介したいと思います。

最初に、37歳という陶工としては高齢から陶工人生を歩んだ、他の陶工、職人からすれば「素人」といえる、乾山の作品に関する概観を述べます。
乾山焼については、新規な製品にとかく目が行きがちだが、技法面からそれを俯瞰すれば、「アベイラブル(利用可能)な技術」を最大限生かした窯業技術の理に適ったものであり、そこには製陶に対する素人な者ゆえに生じる無謀な作陶は微塵もない。

竹内先生の考える乾山焼の代表作に関して書いています。
乾山焼技法と意匠の粋を尽くした作品を、言い換えれば、乾山焼の代表作を挙げよと言われれば、躊躇なく「色絵龍田川文透彫反鉢」(出光美術館蔵)など、透彫の反鉢の一群を挙げる。

これは意外です。私のイメージでは乾山と言えば、光琳絵付けの角皿の一群を思い浮かべますが...。
京焼の歴史をたどれば、やきものの内側にも文様を施すのは、乾山焼以前にはなかった。 (中略)この反鉢は、龍田川文がどこから見ても、川の流れとして表現されている。これが立体であり、これを表現できる人物を、「立体アーティスト」と呼んでも良い。

たしかにそうですね。乾山作品には、作品に裏側にも絵付けされているものが多くてどうやって絵付けしたのだろう? と思うような作品も多いですね。そして、作陶に関する乾山自身の関与に関しても書きます。
尾形乾山が作陶のすべてを担当したのか、あるいは作陶のある一工程を担当したのか。実際のところ、これほど有名な“陶芸家”でありながら、また、これほど多数の乾山焼が伝存していながら、さらにいえば、技法と意匠に触れながら、この疑問に対する解答はいまだにはっきりしないというのが筆者の率直な述懐である。

そして、いつも私が先生の言葉として引用させて頂いている言葉です。
乾山自身が「作陶」に直接関与し、製作過程に乾山の「手の痕跡」のようなものがある作品はない。例えば、乾山が挽き上げた轆轤成形の製品と推定できるものはない。

次の言葉は、竹内先生の魂の叫びのように感じました。
乾山が描いた「絵」のある作品に出合えないだろうか。

そして先生は、「これは、乾山焼きの魅力を知った人々が等しくいだく望みである。」と続けますが...。

これはどうなのでしょうか?
少なくとも私たち乾山焼の魅力に魅了された一般の人たちは、乾山がすべて自分で作画、作陶したものと考えていると思います。今回の展覧会の図録を見ても、竹内先生のこの一文以外に、「乾山は絵付けをしていない」、「乾山の作陶ではない」という「明確な」記載も示唆もありません。(もしかすると、どこかには書いてあるのかも知れませんが、少なくとも普通に読めば分かりません。)
乾山作品の所有者や専門家たちにしても、実際には乾山が作画、作陶していないことを知っていたとしても、それを明確にすることによって乾山作品の価値が下がることを懸念してあまり言えないのではないのかと推察します。(研究者ではリチャード・ウィルソン氏が米国の美術館の所蔵品について乾山自身の作品、工房作品、弟子の作品等の鑑定を行っています。日本では無理でしょう。)

例えば、ガラス工芸のガレの作品を考えてみると、ガレ自身の作品とガレ工房の作品では作品の価値(値段)が全く違います。乾山の所有者達が、乾山作品と乾山工房の作品を明確にしたくない気持ちは分かる気がします。

最後に先生は、先生が乾山の作画であろうと考える作品について書いています。
底部に「正徳年製」の銘がある「銹絵柳文重香合」(大和文華館蔵)の「柳の絵」は、あるいは、乾山の筆になるかも知れない。

そして、最後の最後にすごい事を書いています。
なぜなら、香合全体を立方体という「塊」として把握できず、柳を一面一面に描き、「平面の絵」の連続と見る、つまり、「平面アーティスト」の描く柳文であるからだ。乾山は、「立体アーティスト」ではなかった。

以上を簡単にまとめると、
①現在、乾山作品と言われているもので明確に乾山が作画、作陶した考えられる作品は特定できない。
②乾山焼の代表作は、色絵龍田川文透彫反鉢など、透彫の反鉢の一群である。
③反鉢の作画は、「立体アーティスト」にしか書けない。
④乾山は「立体アーティスト」ではない。
⑤乾山焼の代表作である反鉢は、乾山の作画ではない。

ということをになります。

なんとも大胆な発言だと思いますが、さすが乾山研究の第一人者ですね。
今後のご活躍を期待します。

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乾山 KENZAN―琳派からモダンまで尾形光琳二代目 乾山淡交別冊 仁清・乾山 2011年 08月号 [雑誌]
乾山焼入門


東京白金台の松岡美術館を楽しむ (2016年) [美術]

東京港区の白金台にある松岡美術館に行ってきました。

松岡美術館は山手線の目黒駅から歩いて15分くらいでしょうか。庭園美術館を左に見ながら、てくてくと歩いて行き外苑西通りから少し入った所にあります。
この美術館は、不動産業で成功した松岡清次郎氏が一代で集めた蒐集品を展示しています。特に中国陶磁器、洋画、ガンダーラ美術などのコレクションが有名です。
松岡氏が他の数寄者たちと違うのは、馴染みの骨董商から買うのではなく、ロンドンやニューヨークのオークションに参加して気に入った作品を手に入れたことです。そのため、松岡氏は1億円の品を10億円で買ったというような陰口を叩かれているようです。しかしまあ、これは巨額の購入費を日本の骨董業界ではなく海外で支払ったことに対する恨みも半分くらい入っているのでは? と私は思っています。(^^)
美術館は、松岡氏の自宅の跡に建てられているそうです。
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この美術館も撮影はOKです。(ただし、スマホのような音のうるさいカメラは不可)
ロビーに飾ってあるオブジェです。
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二階に行く階段の踊り場に置いてある作品です。
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私の好きな中国陶磁器を見に来ました。
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明洪武帝時代の釉裏紅花卉文大壺です。形が良いですが、赤の発色は良くありません。釉裏紅は銅を高温の還元炎で赤く発色させるものですが、この時代は温度管理が難しいため赤く発色していない失敗作も多いようです。
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これも釉裏紅です。これはきれいに赤く発色しています。
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明永楽時代の青花龍唐草文天球瓶です。官窯の作品は龍の足の爪が五本描かれます。(五爪竜) この作品は爪が三本なので中近東などへの輸出品だったのかも知れません。
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清朝の陶磁器は、精緻な技巧と絵付けが特徴です。
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松岡美術館と言えばこの青花胭脂紅双鳳文扁壺が有名です。この絵付けは珍しいです。
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これは私の所有品ですが、このタイプの作品は日本ではこれと松岡美術館にあるものだけですね。(もちろん冗談です ^_^)
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ここからは前期の展覧会(宋~元時代)の出品作品です。
青花双鳳草虫図 八角瓶 です。松岡美術館を作るきっかけになった作品とのことです。
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紅釉の鳳凰文です。
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青花の扁壺ですね。
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これは青花の大盤です。
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磁州窯 掻落です。
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この美術館は洋画も良い画が揃っています。
藤田嗣治の作品です。
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佐伯祐三が最初に渡仏した時の師匠であるブラマンクの絵です。
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これは佐伯祐三が傾倒したユトリロの絵です。これらの絵を見ると、佐伯祐三の初期の作品はブラマンクとユトリロの模倣に近いように感じますね。
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1階にはガンダーラ美術が常設展示されています。
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みなさんも白金の街を散策しながら、美術館を楽しんではいかがでしょうか。

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佐野乾山はホンモノだ! 岡本太郎の見た佐野乾山 美術手帖 1962年8月号 を読む [美術]

2 (3).JPGこれまで探していて入手できなかったこの本をようやく手に入れることができました。50年以上も前の本です。

美術手帖 1962年8月号の中に寄稿されている、
「生活者のイメージ 琳派と自然 佐野乾山展をみる」 岡本太郎

新発見の佐野乾山が話題になった1962年6月、芸術新潮が「佐野乾山」展を企画して新発見の作品と資料を東京と大阪で公開しました。これは、芸術新潮の編集部が、「実際にそれらの作品を見る機会を得た人は意外に少ない。そして、噂話にひとしいような真贋論議が実物に則した研究に先走ってしまった。」という問題意識を持って企画したそうです。(素晴らしい!)

今回、紹介する岡本太郎氏の手記は、この「佐野乾山」展の作品を見てその感想をまとめたものです。この手記に関しては、佐野乾山に関する資料には必ずと言っていいほど引用されています。
例えば、白崎秀雄著「真贋」には、以下のように引用されています。
(前略) 会場に入るなり、意外な思いだった。 二つ三つと見るにつれ--なかなかイイジャナイカ。--色が鮮やかなハーモニーで浮かび上がっている。筆さばきも見事だ。(中略) 気どりやポーズ、とかくやきものに見られる枯れた渋み、いわゆる日本調みたいなものがない。(中略)いきいきした線、タッチ、そのリズムが何となくモダ―ンな感じで、ふとピカソやマチスのデッサンを思いおこさせる奔放な表情があったりする。(中略)さてこの展覧会は、真贋のうるさいセンギに決着をつける為に計画されたのだろうが、そんなことどうだっていい。たとえニセモノだって、これだけ豊かなファンテジーのもり上がりがあれば、本ものより更に本ものだ。
これを読むと岡本氏がホンモノ派であることは明白ですが、どの程度乾山の真贋について考えているのかは良く分かりませんでした。

前置きが長くなってしまいました。それでは、岡本氏の記載を紹介します。

岡本氏は、佐野乾山を見るまで光琳は評価していましたが、乾山はまったく評価していなかったようです。この前提で読まないと前出の引用部分の意味合いが良く分からないと思います。
(略) 光琳の絢爛として厳粛な、一義的芸術、その激しい格調、ロマンチスムにふれ、つき動かされれば動かされるほど、私には弟の乾山の仕事が面白くない。趣味的な弱さ、低さ。時おりふれても眼をみはらせるほどのものではなかった。才人の職人芸だ、と無視していた。
近ごろ「佐野乾山」と称するやきものが大量に発見され、真贋問題で大へん騒いでいる。そういうニュースを見聞きしても、そんなことどうだっていいじゃないか、馬鹿々々しい沙汰だとしか思えなかった。従って今度の展覧会にも、「乾山」を確かめに出かけるほどの熱も興味もなかった。ところが編集子のいささか強引な案内もあり、たとえつまらぬものでも日本文化の一つの証拠として、やはり実見しておいてもよいぐらいの気分で行って見た。
(下線は引用者による:以下も同様)
ここから上に挙げた引用文につながります。岡本氏は佐野乾山を見て、乾山を見なおしたようです。
会場に入るなり、意外な思いだった。
二つ三つと見るにつれ、--なかなかイイジャナイカ。--色が鮮やかなハーモニーで浮かび上がっている。筆さばきも見事だ。見て行くほどに楽しい気分になった。
気どりやポーズ、とかくやきものに見られる枯れた渋み、いわゆる日本調みたいなものがない。のびやかに、なまなましい。若い。
(中略)
「乾山」を見なおした。やきものの効果を、小憎いほど心得ており、つぼやさわり、味いを存分に駆使しながら、やはり純粋に絵具の色、線の面白さを打ち出している。つまり絵として、楽しめる。
ここから佐野乾山の作品に関する記載ですが、ここに書かれている印象は、私の抱いた印象とまったく同じでした。
真剣とも遊びともつかない奔放なタッチ。いかなる技術的アクシデントもおそれていない。(中略)
サラサラと落書きのような気軽さで描き上げたものでも、何か形としてかたまり、そして完結している。松、梅、菊、朝顔、茄子、みんなそうだ。線が流れっぱなしになってしまわないで、必ず出発点に回帰して来る。もの、実在物の強靭なシルエットのまとまりを見せている。自然の趣ではない、別な実体を浮き彫りしている。そういう形態を生かす技術である。
ここから岡本氏は、当時話題になっていた「佐野乾山」の真贋論争に関する持論を展開します。学者や骨董商が重要視している「落款」や「故事来歴」、それを根拠にしたニセモノの芸術に関して徹底的に批判します。
さてこの展覧会は、真贋のうるさいセンギに決着をつける為に計画されたのだろうが、そんなことどうだっていい。たとえニセモノだって、これだけ豊かなファンテジーのもり上がりがあれば、本ものより更に本ものだ。まったく、骨董品として商売の種にしたり、美術史的に鑑定なんかする、にぶい御連中の、芸術感覚から浮いてしまった馬鹿々々しさには腹も立たない。
繰り返していうが、芸術にとっては実在するものの豊かさだけが本ものなのであって、落款とか故事来歴の信憑性などは、些末な問題だ。それにつけても、考えるのは、われわれの周囲にあまりにも「芸術」と称するニセモノが多いということ。極めてわずかな本ものしかない。たとえ高名であり、大へんなものだとされていても。そういうニセモノにならされて、むしろ「芸術」本来の感動を見失っているから、こういう騒ぎもおこるのだ。

今回、岡本氏の原文を読むことができ、かなり真剣に佐野乾山をホンモノだと感じていることが分かり、安心しました。そして、佐野乾山を見た岡本氏の印象が、私の感じた印象とまったく同じであることを知りうれしくなりました。
同じくホンモノ派であったバーナード・リーチ氏は、森川氏所有の佐野乾山を見て、「一目見て本物と思うばかりでなく、私が今まで見たなかでもっともすばらしい乾山の焼物です。」とコメントしました。これはすごい発言です。なぜなら、リーチ氏はこれまで名品と言われていた鳴滝時代の光琳絵付けの乾山作品を含めて、佐野乾山の方がすばらしいと言っているからです。このコメントに関して、私はこれまで「それはちょっと言い過ぎでは?」と思っていましたが、今回の岡本氏の書かれた内容を読むと岡本氏もリーチ氏と同じ意見であることが分かりました。
やはり美術品は見る目がある人が見なければダメだ、そして佐野乾山を評価するには「絵が分かる人」でなければならない事を再認識しました。
最近の本を読むと、リーチ氏の佐野乾山に対する見解、発言はリーチ氏の芸術人生の中の汚点であり、晩節を汚したというような扱いをされているものが多いですが、私はそのような評価をする人たちの見識を疑います。

岡本氏は鳴滝時代の乾山の作品(光琳が絵付けをしたもの)をまったく評価していなかったようですが、「光琳は評価していたのでは?」と思って読み進むと、
陶器や団扇に描いたものなんか、つまらぬものが多い。やせていて、これが同じ光琳かと思うくらいだところでここに見られる乾山の方は楽に描きちらしていて、自由で豊かである。
と書かれています。光琳の「紅白梅流水図」「燕子花」などは傑作と評価していますが、乾山の陶器に対する絵付けに関しては、まったく評価していないようです。納得ですね。バーナード・リーチ氏もこの点を指摘していたのだと思います。
1960年代当時の乾山作と言われていた作品は、よく知られている光琳絵付けの作品以外は現在の眼で見ると「?」なものが多かった状況です。玉石混交の乾山作品の中で、玉である光琳絵付けの作品を評価できないのであれば岡本氏が乾山の作品を「才人の職人芸だ、と無視していた」ことも当然のこととして納得できます。私たちも「光琳の絵付け=傑作」という一般的な思考を見なおすべきかも知れません。

私は、この岡本太郎氏の一文に芸術品としての佐野乾山の素晴らしさのすべてが書かれていると感じました。現在、この重要な一文があまり重要視されていないことを不思議に感じました。

佐野乾山に関しては、このK's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm

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「佐野乾山事件とバーナード・リーチ」 豊口真衣子著 を読む [美術]

今回紹介する本は、普通の本ではありません。東京大学比較文学・文化研究会から1998年に出された論文です。私は、東大から小冊子を購入しましたが、最近では、WebにPDFがUpされています。
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/48878/1/CLC_15_004.pdf

前回紹介したような産経新聞の記事が出される前、佐野乾山について語られることがほとんどない状況で、この論文が出されたことに関してはある程度の意味があったと思います。佐野乾山事件に関する経緯が簡潔にまとめられていますので佐野乾山に関して何も知らない人が読む入門書としては、当時の状況が把握できて良いと思います。

ただし、論文の結論・内容に関しては...残念です。
私は常々佐野乾山に関する記載で、「国会での言論統制」に関して記載のない物は評価するに値しない、と考えています。その意味でこの論文は、わたし的にはここで「終了!」です。

この論文の結論は以下の通りです。
・リーチの名はメディアに頻繁に登場する。
・佐野乾山事件が紹介されるときは必ずリーチが言及される。事件を大きくしたのも複雑にしたのもリーチだ。
・リーチが本物説を唱えたことは本物説論者にとって大きな安心感を与えた。
・リーチは新佐野乾山、日本の動向に関して限られた情報しか与えられなかった。本物説論者によって利用されていた面がある。
・結局、リーチは本物説、偽物説の両方から利用された

豊口さんは古美術業界に詳しくないようですが、それにしても佐野事件に対するとらえ方があまりにも表面的すぎます。論文のテーマの取っ掛かりとして、リーチの役割に目を付けるのは良いでしょう。もしかすると、事件の登場人物で唯一知っている名前だったのかも知れません。

事件の発端となった発見者の森川氏の家族にまでインタビューするなど、過去の経緯を綿密に調査しているにもかかわらず、なぜこの真贋事件の核心である国会文教委員会での議論に到達しなかったのでしょうか? 通常は、白か黒か結論が明確になるはずの真贋事件で「日本最大の真贋事件」と言われた佐野乾山事件だけが、なぜグレーと判断されてそのまま30年以上(論文執筆当時)も放置されているのかと不思議に思わなかったのでしょうか?

その国会の文教委員会で行われたことは、東京国立博物館の林屋晴三氏、京都国立博物館の藤岡了一氏、東京大学の山根有三氏などの真作派に対する言論の弾圧でした。これによって佐野乾山に関する学問的な研究の道が閉ざされてしまいました。このことこそ豊口さんが大学の論文で取り上げるべき重要なテーマであったと思います。

事件当時から佐野乾山を調査してきた渡辺達也氏の「尾形乾山の見極め」には、地元高校の教諭であった渡辺氏にも圧力がかかっていたこが記載されています。
おそらくこれは篠崎源三氏の差し金だろうが、著者は昭和三十八年(1963)年十月五日、六日の二日間にわたって壬生町の常楽寺境内の具慶尼庵址及び乾山作陶窯址の発掘を壬生高等学校美術家生徒の教育の一環として実施した。その後、県教育委員会から佐藤金作学校長を通じて、「佐野乾山問題から手を引くように」との圧力があり、日本美術史上に関わる専門のことであるからと、拒否したことがあった。(同書 P118)
昭和39年1月に宇都宮市の東武デパートで「乾山展」が行われました。この時、栃木新聞社が新聞紙上で展示品の佐野乾山を紹介しました。その作品解説は、地元の研究家である石塚青我氏が担当しました。
しかし、石塚氏は、私に「実は解説文は全部林屋晴三君が書いたんだよ。ただ名前を出せないので僕の名前にした」と言っていた。文部省の干渉が影響したといえる。(住友慎一、渡辺達也「尾形乾山手控集成」P404)

ちなみに当時のマスコミも、「国会で議論された」と書いていましたが、何を議論したのかに関しては何も報道しませんでした。私は当時のマスコミがこの問題を報道しなかったことが、佐野乾山をグレーにした元凶だと考えています。産経新聞も、今回のように今まで知られていた陶磁製方の寄贈の話を大々的に報道するのではなく、このような真贋事件の本質に関してきちんと報道すべきだと思います。

その他、豊口氏の記載に関して一言、二言...。
①リーチは真作派であったが、常に贋作である可能性を挙げて逃げ道を用意していた。
はっきり言って、300年以上前の美術品に関して絶対確実な真作の根拠などありません。ですので真面目に考えている人ほどその発言は慎重になるはずです。リーチの、
(これほど美しいのに)本物でないなら、過去に乾山と同じように偉大な芸術家がいて、絵具も釉薬も手法もそっくり乾山流に作ったか、或いは、信じられないような人物が今日存在しているか」だ」
という発言は、「可能性としてはあるがそんな人は存在しない」という意味で捕えるべき発言でしょう。リーチは、森川氏の佐野乾山を見て、「一目見て本物と思うばかりでなく、私が今まで見たなかでもっともすばらしい乾山の焼物です。」とコメントしたのです。リーチは長年乾山を研究してきて、七代乾山となった人です。そのリーチが、それまで知られている乾山の傑作よりも森川氏の佐野乾山の方が素晴らしいと評価したのです。つまり誰もが名品として認めるであろう光琳・乾山の合作よりも素晴らしい贋作を作ることができるような陶芸家が存在するとは考えられない、という当たり前のことです。

逆に、贋作派の代表である加瀬藤圃の、
真乾山とは似ても似つかない下手物であることは明瞭である。
森川氏は、まづ第一の明き盲で、これを絶賞して已まなかつた美術史家の数氏は、尚一段の半鑒耳食の徒である。その愚劣低見論ずるに足らぬヘボ学者である。二世紀以前の作品と今窯から出たばかりの下劣醜陋なるものとを辨別が出来ぬとあつては、今までなにを勉強されていたのかといいたい。
という断定的で自信満々のコメントほど、眉毛が濡れるほど唾をつけて疑ってかかるべきものだと思います。

②リーチは陶芸家としては唯一真作派であった。これは、日本では佐野乾山に対する反対意見が大勢を占めているという正しい情報を与えられなかったからだ。
贋作派の中心は日本陶磁協会でした。陶磁協会は、陶芸家や骨董屋、文部技官などが会員となっている大きな団体で、事件当時、陶磁業界で大きな力を持っていたと言われています。佐野乾山に関してその陶磁協会のTopが贋作であると判断したのですから、陶磁協会の会員はその判断に従わざるを得ません。つまり陶芸家たちは自分たちの作品が業界内で売れなくなるリスクを考えると自由に意見を言える状況では無かったのです。その中で、日本の陶磁業界とは関係のないリーチは、陶芸家としては唯一自分の感じた、信じた事を自由に発言できる立場にいたのです。その点を理解できなければ話になりません。
前出の渡辺達也氏の「尾形乾山の見極め」には、以下の記載があります。
私は直接リーチ氏に「富本さんは乾山についてどういっておられますか?」と聞いてみたところ、リーチ氏は「富本は絵もわからないしなにもいわない。いえないのだ。悲しい。」と、親友の富本氏がなにも発言できない立場を知っていて、それこそ悲しそうであった。とどのつまりは富本憲吉氏でさえ、勿論浜田庄司氏でも同じであったろう、日本陶磁協会の傘下にある陶芸家の泣きどころを、リーチ氏はよく知っていて、日本の美術界の狭隘な姿を悲しんでいたのである。(渡辺達也氏「尾形乾山の見極め」P97)

最後に「永仁の壷事件」と「佐野乾山事件」に関して書きます。
佐野乾山に関して論じる時に、「永仁の壷事件」の時に陶磁協会が何をしていたかを一緒に考えなければ状況をきちんと理解できません。
「永仁の壷事件」とは、陶工の加藤唐九郎が作った壺を文部技官であった小山冨士夫が鎌倉時代の古陶として重要文化財に認定しましたが、さまざまな疑惑の声が上がり最終的には唐九郎が「自分が作った」と認めて重要文化財は取り消されました。一般には、小山富士夫は唐九郎に騙されたと言われていますが、実際には、小山も唐九郎も陶磁協会の仲間でした。

佐野乾山事件と言えば、「国会でも議論された」という枕詞が付きますが、実は前の年におこった永仁の壷事件に関しても同様に国会で議論されています。(http://kaysan.net/sano/einin.htm
要は、永仁の壷事件という明確な贋作に関するメンバーどうしの馴れ合いに関しては何の糾弾も謝罪も反省もしなかった日本陶磁協会が、佐野乾山に関しては執拗に贋作だ、贋作だという主張を繰り返していたのです。
このことを知ると「佐野乾山に関してそれだけ言うのであれば、なぜ永仁の壺の時にきちんと贋作だと糾弾しなかったのか!」と言いたくなります。それこそ、前出の加瀬藤圃が指摘した「二世紀以前の作品と今窯から出たばかりの下劣醜陋なるものとを辨別が出来ぬとあつては、今までなにを勉強されていたのかといいたい。」という言葉をそのままお返ししたいですね。(^^)

【追記】
国会文教委員会での議論に関しては、基本書とも言える白崎秀雄氏の「真贋」「新発見・佐野乾山」(昭和40年)に記載がありますし、詳しい内容については国会のHPで議事録を読むことができます。

さて、産経新聞の佐野乾山報道ですが、きちんと本質までたどり着くか見守りたいと思います。

乾山に関しては、こちらもご覧下さい。
・乾山と言えば色絵陶器です! 「国際写真情報 」 を見る
・佐野乾山の真実! 尾形光琳二代目 乾山 細野耕三著 を読む
・佐野乾山は美しい! 骨董のある風景 青柳瑞穂著 青柳 いずみこ 編 を読む
・藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む
・「開運! 何でも鑑定団」の鑑定士の本「ニセモノ師たち」 中島誠之助著 を読む
落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

【佐野乾山に関しては、K's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm)】

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佐野乾山の新聞報道に関して(2015年) [美術]

2015年11月26日の産経新聞に何十年か振りに佐野乾山に関する記事が掲載されました。

世紀の真贋論争「佐野乾山」解明へ 栃木の旧家で自筆伝書と陶器発見

お! 佐野乾山の新資料が見つかったのか! とビックリしました。
しかし、記事を読んでみると乾山の書いた伝書「陶磁製方(佐野伝書)」が所有者から佐野市に寄託されたという内容です。な~んだ。佐野伝書は、新発見でも何でもなく昔から乾山の伝書として真筆として認められているもので、50年前の真贋論争とはまったく関係がありません。
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写真のように1982年に五島美術館で開催された「乾山の絵画」という美術展で展示され、図録にも掲載されています。




新聞記事にも佐野伝書が確認されたのは33年ぶりと書かれていますが、これまで知られていた資料が佐野市に寄託されただけなのに、なぜ
半世紀前の真贋(しんがん)論争事件で美術界最大のタブーとされた「佐野乾山」に、再びスポットライトが当たることになる。」(記事の記載)
につながるのか全く分かりません。
また、佐野伝書とともに素焼きの皿3枚が発見されたそうですが写真を見る限り、私には佐野乾山とは思えません。この記事は、産経新聞にしか掲載されていませんので、「産経新聞もよっぽどネタがないんだな~」と思ってしまいました。(笑)

ところがその後、産経新聞は
●11月26日具体的な記述、由来明確 ゆかりの佐野市が寄託受け入れ 真贋論争の「佐野乾山」史料、栃木で発見
●11月27日尾形乾山「元文2年9月」に佐野へ 有力者の招きで来訪か
●11月28日「佐野乾山」は数点程度か 栃木県内旧家で盗難、所在不明陶器も
●12月2日「佐野乾山」裏付ける貴重な史料 「陶磁製方」の写本も発見
●12月5日真贋論争巻き起こした佐野乾山のもう一つのミステリー 盗難で所在不明の作品は何処へ…

というように、佐野乾山キャンペーンのような記事を連続して書いています。
う~む! 産経新聞は何を意図しているのでしょうか?
記事の記載回数の割に内容は陶磁製方の所有者から取材した内容に留まっており、そこまで引っ張る必要もない内容です。

当初は、50年前の佐野乾山事件にはまったく関係ないと考えていましたが、これだけ新聞ネタになることで、一般の人にも「佐野乾山」の名前が浸透する良い機会かもしれないと思うようになりました。私は50年前の「佐野乾山事件」が風化してしまうことを懸念して地道な活動をしていましたが、今回の記事で少しは人々の記憶に残るかもれしれませんね。

もしかすると産経新聞はまだ何か大きなネタを持っているのかも知れませんね
これからも注目したいと思います。

【2015.12.08:追記】
2015.11.26夕方の記事の内容の間違いを勝手に添削します。(^^)
「所蔵が確認された「色絵夏山水画菓子皿」
 栃木県佐野市で、自筆伝書「陶磁製方(佐野伝書)」や陶器など6点が見つかった尾形乾山は日本画家、尾形光琳の弟で、日本三大陶工の一人としても知られる。だが、晩年に現在の同市で作陶された「佐野乾山」は大量の贋(がん)作(さく)が流通し、研究者や好事家の間では「乾山を見たら偽物と思え」とまで言われる幻の作品群となっている。佐野市は寄託を受けることを決定。美術界最大の謎の一つ「佐野乾山」の全容解明に期待がかかる。」(元の記事)

①尾形乾山は日本画家、尾形光琳の弟で、日本三大陶工の一人としても知られる。
尾形乾山は、日本画家尾形光琳の弟で、日本三大陶工の一人としても知られる。
(元の文だと尾形乾山が日本画家のように読めてしまいます)
②晩年に現在の同市で作陶された「佐野乾山」は大量の贋(がん)作(さく)が流通し、研究者や好事家の間では「乾山を見たら偽物と思え」とまで言われる幻の作品群となっている。
晩年に現在の同市で作陶された「佐野乾山」は昭和30年代に大量の新発見の作品が発表された。当時の乾山研究者や好事家の間では「乾山を見たら偽物と思え」と言われていた中での新発見で大きな話題となった。
(当時発見された佐野乾山は、「贋作」とは結論付けられていません。あくまでも「グレー」です。また、大量に流通したとも言えません。一部の骨董屋、好事家が購入していただけです。「乾山を見たら偽物と思え」というのは、佐野乾山に関して言われたことではなく、当時の乾山(鳴滝・二条丁子屋)などに関して言われたものです。当り前ですが、佐野乾山などに比べて鳴滝乾山などの贋作の方が桁違いに数が多いです。)

新聞報道は、事実誤認が多いものです。みなさんも注意して読みましょう。

乾山に関しては、こちらもご覧下さい。
・乾山と言えば色絵陶器です! 「国際写真情報 」 を見る
・佐野乾山の真実! 尾形光琳二代目 乾山 細野耕三著 を読む
・佐野乾山は美しい! 骨董のある風景 青柳瑞穂著 青柳 いずみこ 編 を読む
・藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む
・「開運! 何でも鑑定団」の鑑定士の本「ニセモノ師たち」 中島誠之助著 を読む
落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

【佐野乾山に関しては、K's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm)】

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尾形乾山生誕350周年の展覧会(2013年)を振り返る [美術]

「琳派」の展覧会と言えば、美術展でも大人気の企画物の一つでしょう。
2008年に東京国立博物館で『尾形光琳生誕350周年記念「大琳派展-継承と変奏-」』という大企画展が開催されました。私も観に行ってきましたが、凄い人で混みあっていました。20万人以上の方が訪れたそうです。

ところが、その5年後の2013年は光琳の弟の尾形乾山の生誕350周年ですが、目立った乾山展は開催されませんでした。今年(2015年)の5月~7月に東京ミッドタウンのサントリー美術館で久しぶりの乾山展『「着想のマエストロ 乾山見参!」展 』が開催されました。かなり大規模な乾山展で、見ごたえがありましたが、「なぜ生誕350周年でこれをやらなかったのか?」と疑問に思います。

さて、実はその乾山生誕350周年の年に栃木県の佐野市で「佐野乾山展」が開催されていました。(2013年12月4日~8日) 私もその展覧会のお手伝いをしていたので紹介します。会場は、佐野市内にある佐野文化会館です。

小さな展示会をやるにはちょうど良い大きさの会場で、30点以上の佐野乾山が展示されました。
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私も佐野乾山を10年以上調べていますが、これだけ多くの素晴らしい佐野乾山の作品を一度に観たのは初めてでした。
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佐野乾山の特徴は、鳴滝時代には見られない乾山の自画自賛の作品であるということです。(鳴滝時代は、光琳などの絵付けでした)つまり、乾山自身が描いた絵と書を見られるということです。
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「まだこんなに素晴らしい佐野乾山が残っていたんだ…」というのが正直な感想です。絵も書ものびのびと描かれていて引き込まれてしまいます。
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今回は、茶碗と角皿が多かったですね。
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来場された方々のほとんどは、「佐野乾山」の事をご存じなかったようです。
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それでも作品に描かれた絵と書の素晴らしさに皆さん感心されていました。
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乾山の賛と落款です。最初「於下毛佐野庄越名河畔 元文二歳焚之」最後「老陶工乾山省」と書いてありますね。表に描かれた絵も見事でした。
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さて、以上が前振りです。(笑)

一昨年、昨年に続き、今年も佐野で展示会と講演会を開催します。
お近くの方は、ぜひご覧になってください。(今年は作品の展示は10点程度です)

日時 10月10日(土) ~ 10月11日(日)
講演会 13時30分開始
作品展示 10日(土) 13時~17時、11日(日) 10時~17時
入場 無料
場所 佐野市市民活動センター ここねっと (栃木県佐野市大橋町3211−5)
主催:佐野乾山顕彰会

佐野乾山について知りたい方は、以下のブログも参考にして下さい。
・佐野乾山の真実! 尾形光琳二代目 乾山 細野耕三著
・藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む
落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

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金曜日の夜に上野で美を味わう ・・・ 国立西洋美術館 (2014年) [美術]

金曜日の夜は、上野にある博物館、美術館は20時まで開館していることが多くなりました。美術好きにはうれしいことです。

さて、第二弾は国立西洋美術館です。
国立西洋美術館は、フランス政府が没収していた松方コレクションの西洋画の受け皿として作られた美術館です。(松方コレクションの浮世絵約1万点は、東京国立博物館に収められました)
松方コレクションとは、川崎造船所の初代社長である松方幸次郎が1920年代にヨーロッパで収集した美術品群です。(この時代は、いわゆるバブル時代で、日本にも多くの大富豪(成金)が生れました。)

イギリスで約300点(火災で焼失)、フランスで400点以上の作品を購入したそうです。第二次対戦後、フランスから引き渡された作品が西洋美術館に収蔵されています。
非常に残念なことは、この時にヴァン・ゴッホの「寝室」などの傑作はフランス政府に押収されてしまったことです。

松方氏は、絵画を買う時は、画商に行って壁に並ぶ絵をステッキで指して「ここからここまでの絵をくれ」というように、かなり豪快に「大人買い」をしたようです。
例えば土田麦僊にパリで会うと、麦僊がゴーガンを非常に褒めるので、松方さんは画商にゴーガンが見たい、と注文する。すると、その次にその画商を訪れると、ゴーガンの画がずらりと並べて見せられて、こっちが吃驚した。驚く可きことは、それから数日して、他の画商へ行っても、いつの間に伝わったものか、またゴーガンを見せられる。かくてそれから僅かな時日の間に、私達はパリ中のゴーガンを皆んな見てしまう結果になったのみならず、やがてロンドンからもベルリンからも目新しいゴーガンが到着する、という有様であって、松方さんの注文の威力も偉いが、また有力画商の各都市間の連絡も敏活であるのに、私は驚かされた。
(矢代幸雄「芸術のパトロン」より)
松方氏は、ロダンやモネの作品は、直接本人に会って購入したようです。

今回は、西洋美術館の常設展だけを見てきましたが、やはりかなりレベルの高い画が揃っていました。

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美術館の入口の所にあるロダンの「地獄の門」です。
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美術館の入り口です。ここも常設展は写真撮影はOKです。
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これもロダンの作品のようですね。
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お客さんが少ないので、ゆっくりと見ることができます。
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見たことのある画がたくさんあります。
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この絵は、とても緻密に書かれていて驚きました。
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この画も惹きつけられますね。可愛いです。
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印象派と言えばモネですね。
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これは、ルノアールの「バラをつけた女」です。
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世界の藤田嗣治の作品です。この作品は初めて見ました。
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金曜日の夜に上野で美を味わう ・・・ 東京国立博物館 (2014年) [美術]

金曜日の夜は、上野にある博物館、美術館は20時まで開館していることが多くなりました。美術好きにはうれしいことです。私の場合、仕事を早めに片付けて、仕事場の大宮を18時頃に出れば、上野公園には19時前には着きますので1時間は見て回ることができます。

土日に行くのも良いですが、空いている金曜日の夜に美術館に行くのもお勧めですよ!
上野では、やはり東京国立博物館が一番のお勧めになります。常設展は空いていて写真撮影もOKです。(企画展、特別展などは撮影禁止です) 今回、「東アジアの華陶器名品展」に通常は常設展示されている乾山の「銹絵観鴎図角皿」が展示されていたので、撮影ができませんでした。(‐‐;

東京国立博物館は、「2013年3月31日時点で、国宝87件重要文化財631件を含む収蔵品の総数は114,362件で、これとは別に、国宝49件重要文化財253件を含む総数2,563件の寄託品を収蔵している。」(ウィキベティアより)という、日本最大の博物館です。「Michelin Green Guide Japan」でも三つ星がついており、外国人のお客さんも目立ちます。

東京国立博物館は、本館、東洋館、平成館、法隆寺宝物館などの建物があり、1時間で全部見るのは不可能なので、ターゲットを絞って行きましょう。私の場合、本館で、乾山などの日本の陶磁器を見た後、東洋館の中国陶磁器を見るパターンが多いです。人が少ないので気に入った作品をじっくりと気のすむまで見ることができます。

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夜の博物館も雰囲気が良いですね。
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今回は、東アジアの陶磁器展をやっていました。(撮影禁止)
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以下は、常設展の作品です。
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色絵飛鳳文隅切膳、奥田頴川の作品です。
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東洋館の入り口にある石仏です。
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ガンダーラの仏像はイケメンが多いですね。
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ここからは、中国陶磁器です。
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唐三彩ですね。
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中国陶磁器の黒釉銹花蓮華文瓶 河南天目です。(金~元時代)
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宋時代、定窯の白磁蓮花文皿です。蓮花文の彫りが見事ですね。
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重要文化財の南宋官窯です。全面に入った貫入が見どころです。
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平成館で「国宝再現-田中親美と模写の世界」をやっていました。田中親美と言えば、模写と古筆の第一人者です。宗達の世界を見事に再現していますね。(ここからはiPhone5で撮影)
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俵屋宗達の風神雷神図のフィギュアです。
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作者は忘れましたが、雀の描写が見事で驚きました。
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写楽は欄間彫りの「庄六」だ! 「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』を六代・豊国が検証した」 六代歌川豊国著を読む [美術]

syaraku.JPGこの本は、25年以上前に出された本ですが、ぜひ紹介したいと思っていました。

東洲斎写楽は、一年弱という短期間で約145点余の錦絵作品を出版した後、忽然として消えてしまったため、謎の絵師と言われています。その画風は、インパクトのある大首絵が特徴で、ドイツのクルトがその著書でレンブラントやベラスケスと並ぶ肖像画家と称賛したことで、日本でも注目を浴びることになりました。

その画力と黒雲母刷りというお金をかけた作品と短期間で消えてしまった事から、少し前までは、有名絵師などが名前を隠して写楽名で出版したのではないか、という「写楽別人説」が多くの人から出されていました。北斎、歌麿、豊国、艶鏡、司馬江漢、谷文晁、円山応挙、山東京伝など、有名人であれば誰でも写楽という状況でした。(笑) 最近では、『増補浮世絵類考』で記載されていた阿波の能役者である斎藤十郎兵衛説が有力視されています。

今回紹介する本は、江戸時代に浮世絵の最大派閥(最盛期256名)を形成していた歌川豊国の「歌川派」の六代を継承した六代歌川豊国氏が歌川家に伝承していた写楽の実像を語ったものです。六代豊国氏の祖父からの系譜は、以下の通りです。
祖父:初代国鶴 文化元年(1804年)生まれ
実父:二代国鶴 嘉永5年(1852年)生まれ
本人:六代豊国 明治36年(1903年)生まれ

この本は、1988年に出版されましたので、この当時豊国氏は85歳でした。つまり、祖父の代まで遡ると約200年前を語ることができるということです。歌川家の写楽に関する伝承は、北斎がその情報ソースとのことです。
伝承:北斎初代国鶴国政(梅堂)・国鶴(二代)・豊国(五代) ⇒ 六代豊国(大正末期)

私の持論は、「真実は、知っている人に聞くのが一番」というものです。いくら詳細に調査して論理構築しても、真実を知っている人の一言には敵わないと思うからです。ですので、写楽別人説が跋扈していた25年以上前にこの本を読んで、「これが真実に近いのでは?」と写楽別人説に対する熱意が一気に醒めたました。(^^)
(ただし、この六代豊国氏の家系に関して、疑惑を持たれていることもあるようです。)

初代豊国の後は養子であった豊重が二代目を継ぎますが、娘の「きん」が反対して初代の弟子である国貞を立て、一時期二代豊国を名乗りました。その後、国貞は三代豊国を名乗り豊重の甥の初代国鶴に四代豊国の襲名を約束しました。しかし、国貞の死後、二代国貞が無断で四代豊国を名乗り問題となります。
その後、三代国貞の弟子である梅堂国政が「四代豊国」を預かりとして、使用しなかったようです。その後、国鶴の長男官之介が二代国鶴、次男国松が五代豊国を継ぎ、六代豊国氏に繋がっています。

豊国氏は、浮世絵師の視点から写楽の謎に関するコメントを出しています。
・浮世絵師は芸術家ではなく職人。写楽だけでなく、他の絵師も謎だらけである。有名な喜多川歌麿にしても生年も出身も不詳。
・多くの絵師は枕絵、秘画などを描いて糊口をしのいでいた。そのため、写楽に秘画がないのは、プロの絵師でない可能性がある。
・下絵修行もなく、挿絵も描かず、上下関係もなく、いきなり「大本番」の黒雲母版大首絵の出版は、それ自体異常すぎる
・名人の極意は「北斎の捨て定規、写楽の輪」という歌川の伝承がある。
⇒ 写楽の輪は平面的な円ではなく立体的な円、つまり球形をしている、ということ。
⇒ 写楽が絵師ではなく、立体を相手にした彫り師であったから。

さて、いよいよ歌川に伝承した写楽の実像です。
・写楽は、本名を庄六(=写楽)という欄間の彫り師で、豊国、北斎と囲碁仲間だった。
・出身は摂津佃村。叔母が義太夫の三味線弾きで、庄六も竹本座に通い十返捨一九と知り合う。
・事情があり、江戸に下る。寛政9年7月7日に江戸佃島で没した。
・庄六の江戸行きは、26歳頃。佃島に済んだ庄六は欄間や水屋の彫刻で糊口をしのぐ。
・江戸で義父の下駄屋の甚助と出会い、下駄屋を手伝う。下駄屋では金融業や貸本も行う。
・庄六は神田錦町の店が与えられ、東国屋と名付け、歌舞伎の楽屋にも出入りする
・下駄屋甚兵衛は版元になることを考え、蔦屋を通じて馬琴、北斎、京伝を知った。
・一九は、庄六のスケッチを見て驚く。蔦屋が役者絵を出したいと一九に相談し、庄六を紹介する。
・蔦屋は庄六の絵を見て驚くが、これは売れないと言い、売れなかった分を引き取る条件を出し庄六も承諾する。(いわば自費出版のようなもの)
・庄六=写楽、佃島=東洲
・作業は、一九と蔦屋が共同で行い、最初は28枚を黒雲母版で出す。これを見て北斎が驚く。北斎はショックを受け、「あれは誰だ」と執拗に蔦屋を問い詰めた。同様に歌麿もショックを受ける
・さらにショックを受けたのが、豊国で、初代豊国の作画は、写楽の模倣に近い
・第一期は有名無名をとりそろえたもので、当然のことながら売れなかった。
・第二期は当時の流行役者のみを描く。(蔦屋の注文だろう)
・写楽の絵は売れなかった。役者絵というのは第一に役者が買う。ヒイキ先に配るからである。この役者がクレームを付けたのであるから始末が悪い。
・庄六は蔦屋との約束通り、売れ残りの絵を引き取り、自分の下駄屋でその絵をくじ引きで販売し、結構売れた。しかし、町奉行から「富籤の無許可販売」の罪で神田錦町の店「東国屋」は閉鎖となる
・寛政9年6月蔦屋が死亡。同年7月7日、庄六は物干しから落ちて死亡する。
・庄六のスケッチは、豊国が預かり熱心にその手法を学んだ。

さらに、庄六に関する驚きの情報があります。
写楽は足の指が六本あった。指六 ⇒ 庄六と名を付けられた。
⇒ 歌麿が写楽を意識して「不具のうつし絵」、「五体の不具」という言葉を使っている。
⇒ 広重の「東海道五十三次」の絵の登場人物の半数近くが六本指で描かれている。広重は、庄六のスケッチを参考にしていたのかも知れない。

如何でしょうか?
歌川家に、これだけ詳細な伝承があるのであれば、もう少し重視すべきだと思いますが、現状ではほとんど無視されているような状況です。私はそこにも真実の光が見えます。(笑)

写楽に関しては、以下もご覧ください。
・写楽は北斎か? 「写楽」問題は終わっていない 田中英道著を読む
・江戸美術考現学 浮世絵の―光と影  仁科又亮著 を読む
・美術評論家の瀬木慎一を悼む

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日本美術の七不思議ベスト1 「風神雷神図」に見る 宗達のすべて「芸術新潮2014年4月号」 [美術]


芸術新潮 2014年 04月号 [雑誌]



現在、発売中の芸術新潮の2014年4月号の特集は、『日本美術の七不思議ベスト1「風神雷神図」に見る宗達のすべて』です。俵屋宗達と言えば、一般には「琳派の創始者」というイメージですが、それに関する疑問を投げかけた特集です。

俵屋宗達に関しては、このブログで2回ほど紹介しています。
・宗達は本当に琳派か? 俵屋宗達 琳派の祖の真実 古田亮著 を読む
・宗達 光琳 乾山が揃い踏み 琳派芸術 ―光悦・宗達から江戸琳派― に行く

今回の特集の筆者は、安村敏信氏で、2013年3月まで、板橋区立美術館館長をされていた方です。日本美術全集では、第13巻『宗達・光琳と桂離宮』を監修されました。

特集の目次は、以下の通りです。
≪風神雷神図屏風≫ 9のキーワード
1.「琳派への疑問」
2.俵屋
3.モティーフ
4.ルーツ
5.技法
6.形式と構図
7.色彩と背景
8.後継者たち
9.制作年代の謎

まずは、「風神雷神図屏風」の謎について。安村氏は日本美術史七不思議のベスト1と主張します。
①落款・印章が全くないのに宗達筆を否定する論文を見たことがない。
②明治17年のフェノロサの調査では「伝宗達」とされていた。(宗達筆と伝わっているという意味)
③江戸時代の記録のどこにもこの作品が出てこない。
④それにもかかわらず、明治30年代から宗達真筆とされており、現在国宝に指定されている。

そもそも「琳派」とは、この宗達の作と言われている「風神雷神図」を尾形光琳が模写し、その光琳の画を酒井抱一を模写し・・・と「私淑によって継承された」流れを一派と考えたものです。しかし、この本で、「光琳は宗達をそれほど重視しておらず、抱一はオリジナルが宗達であることを知らなかった」と書かれています。だとすると、「琳派」の意味とは何なの?

その他にも「琳派」の代名詞ともいえる「たらし込み」の真の意味を琳派の絵師たちは誰一人理解していなかった、とさえ書いています。読んでいて「へ~!」の連続です。(^^)

琳派ファンには必読の書と言えます。

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江戸絵画の非常識―近世絵画の定説をくつがえす (日本文化 私の最新講義)浮世絵美人解体新書美術館商売―美術なんて…と思う前に (智慧の海叢書)宗達と琳派の源流 琳派美術館 (1) (琳派美術館)河鍋暁斎―奇想の天才絵師 (別冊太陽)狩野探幽 (新潮日本美術文庫)広重と歩こう東海道五十三次 (アートセレクション)もっと知りたい狩野派―探幽と江戸狩野派 (アート・ビギナーズ・コレクション)工芸と琳派感覚の展開 琳派美術館 (4) (琳派美術館)抱一と江戸琳派 琳派美術館 (3) (琳派美術館)

美術品の科学鑑定って? 「X線分光分析」、「やきものの美と用―芸術と技術の狭間で」 加藤 誠軌著 を読む [美術]


X線分光分析やきものの美と用―芸術と技術の狭間で


佐野乾山事件の時の科学鑑定に関することを書いた本です。
両書とも佐野乾山事件についての記載は1,2ページしかありませんが、学術的な本に書かれたということで決定的な証拠として安易に引用している人もいるので、ここで取り上げてみます。
著者の加藤誠軌氏は、1928年生まれ、東京工業大学卒業、1958年同大学工学部助手、1967年助教授、1974年教授、1989年定年退官とのことです。佐野乾山事件の当時は東工大の助手だったようです。

それぞれの本の記載を見てみましょう。(下線は引用者が付けました)
昭和37年頃、二百余点の「佐野乾山」が新たに発見された。さらに「佐野乾山手控帳」という覚書も見つかった。その当時蒐集家のM氏の依頼で(国立博物館の専門官H氏も同席した)著者がXRF装置で分析した。当時のXRF装置は大きな物体は測定できなかった。そこで、木綿針を数本束ねて焼き物を啄木鳥のようにつついてごく少量の上絵具を採取した。傷跡は漆と顔料で補修した。昔の顔料と現代の顔料を数十種類用意して、それらを標準にして定性分析をした。
分析の結果は、佐野乾山の絵具の顔料は非常に純粋で、昔にあるはずがない顔料も検出した。分析結果はM氏に伝えたが公表はしなかった。著名人士を巻き込んで賛否両論が国会にまで持ち出された「佐野乾山」は偽物であることがこの方法で科学的に証明された。現在では「佐野乾山」の作者も判明しているという。
(「X線分光分析」より)
森川は第一級のコレクターで審美眼や古文書の読解には自信をもっていたが、その上をゆく贋作者がいたわけである。
森川は収集した佐野乾山を内密に処分したらしい。佐野乾山の偽物には巧拙数種類があって、森川コレクションの佐野乾山は本物に近くて古物商でも鑑定が難しいそうである。(中略) ということで目利きや専門家の眼力もあまり当てにできない。つまり軟陶の鑑定はプロにとっても非常に難しいのである。
(「やきものの美と用―芸術と技術の狭間で」より)

佐野乾山の焼物は、素焼きした器に白化粧を行い、絵具で絵付け、画賛・銘を書き、透明釉をかけて窯で焼く「下絵付け」という手法で焼かれています。ですので、上の引用文に「ごく少量の上絵具を採取した」と書いているのをみると、何を採取したのか疑問を持ってしまいます。もしかすると、透明釉の成分分析をしたのか? とも読める記載です。
このように疑問を持つのは、学術書の体裁をとっているにもかかわらず、両書とも解析したデータの記載がないのです。データが無いのに「佐野乾山の絵具の顔料は非常に純粋で、昔にあるはずがない顔料も検出した」と書かれてもコメントのしようがありません。
そして、たとえ用意していた顔料と成分が異なっていたとしても、「用意していた顔料とは成分が違う」としか言えないと思います。それにもかかわららず、「「佐野乾山」は偽物あることがこの方法で証明された」と断言する記載はとても科学者の書いたものとは思えません。
さらに、加藤氏のロジックは、「調査した1点の佐野乾山が偽物だったので、「佐野乾山」は偽物である」というトンデモないものです。このロジックでいけば、鳴滝乾山の贋作を1個調査して贋作だったので、「鳴滝乾山」は贋作であると主張するようなものです。正直言って、東工大の教授がこんな論理構築をするのか? と本当に疑いました。

もうすでにご高齢の方なので、あまり言いたくはありませんが、松浦潤氏のような人が「科学鑑定によって佐野乾山は贋作と証明されていた」などと強く主張しているのであえて書きました。

また、佐野乾山事件の前年に大きな問題となった「永仁の壷事件」についても書かれています。
東京国立文化財研究所の江本義理技官らは、永仁の壷を鎌倉時代から確実に伝世している古瀬戸と蛍光X線分析装置で比較測定した。その結果、釉薬に含まれるルビジウムとストロンチウムの比率がまるで違うことが指摘されて、結果は黒と判定された。
(「やきものの美と用―芸術と技術の狭間で」より)

この事例は、科学鑑定で真贋を判定した事例として書かれることが多いのですが、本当にこの調査で分かるのでしょうか?
①「確実に伝世している古瀬戸」と言われているものは本物か?(そのようなものがあるのか?)
②「確実に伝世している古瀬戸」と言われているものと釉薬の成分が違う古瀬戸は無いのか?
(今後、発掘されて見つかる可能があるのでは?)
というような疑問があります。古陶磁の世界で、科学鑑定の基準となる鎌倉時代からの「確実な来歴」を持つものはあるのでしょうか? また、①に関しては、人間が鑑定したものですから、贋作が混じっている可能性は少なからずあると思います。結局、科学鑑定と言っても、現在本物と言われているものとの比較でしか分からない訳ですから、「本物と言われているもの(基準品)と同じか否か」しか判定できないのです。
この「永仁の壷事件」にしても、唐九郎の告白が無い状態で、科学鑑定の結果だけで贋作と判断されたかどうかははなはだ疑問です。結局は唐九郎の告白の裏付けだけの位置づけだと思います。

まあ、この本はあえて読む必要はないと思います。(笑)

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佐野乾山に関する名著 佐野乾山の見極め 渡辺達也著 を読む [美術]

mikiwame.jpg故渡邉達也氏の佐野乾山に関する隠れた名著です。
「隠れた」と書いた理由は、入手が非常に困難なのです。私自身も手に入ることができていませんので、友人から借りて読みました。

渡邉氏は1924年に壬生生まれの洋画家です。佐野乾山事件の時は壬生高校で教鞭を取っておられましたが、森川勇氏の依頼で佐野乾山に関わる事となりました。以来、40年に渡り佐野乾山を追ってきた筋金入りの在野の研究家です。

佐野で発見された手控えによると、乾山は佐野に滞在した元文三年に壬生の常楽寺で作陶を行ったと書かれています。渡邉氏は、壬生高校の生徒たちと一緒にその常楽寺跡を発掘調査したことでも有名です。

さて、この本ですが、一般的な佐野乾山の関する記載とは違い、40年に渡る佐野乾山事件の発端からその後までを統括して書かれており、佐野乾山を研究する上では必見の書と言えるでしょう。

佐野乾山事件と言えば、「日本最大の真贋事件」と書く人もおり、「国会でも議論された」などの形容詞が付くことが多い事件です。しかし、その国会で何を議論されたかについては、専門書を含めて書かれている本はほとんどありません。

私は、佐野乾山事件を調べていく中で、国会での議論した内容を読み、この事件の本質を知りました。この国会での議論が佐野乾山事件を「限りなく黒に近いグレー」などという、うやむやな状況においている原因でした。
それは、これから私の拙文を通読下されば、理解していただけるものと思うが、この新発見の佐野乾山で、直接に或いは間接にと不利な立場にある人は口を閉ざすか、贋作説を鼓吹するかであった。まして公的職務にある場合は、昭和37年10月29日の第41回国会衆議院文教委員会において、高津正道議員による佐野乾山問題に関しての質問に文部事務官清水康平氏(文化財保護委員会事務局長)が、国立博物館に国家公務員としての発言に注意したという一事で関係した学者は一切公言できなくなり、他の国公立大学の研究家も同様に佐野乾山問題については触れなくなった。したがって、これを期に贋作説者の一方通行となって、それらの極論者にいわせれば、贋作であったからこそ、真作説が唱えられなくなったのだ、と都合よく逆利用していたのが実情であった。

私の場合、自分で苦労してようやく本質が分かったと思ったすぐ後にこの本を読んだので、かなりショックでした。何だ、ここにちゃんと書いてあるじゃないか...と。
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佐野乾山発見当時、有力な真作派であったのは、東京国立博物館技官の林屋晴三、京都国立博物館工芸室長の藤岡了一、東大文学部助教授の山根有三などの人たち、つまり国家公務委員の人たちでした。そして、国会文教委員会で、当時の高津委員が、文部事務官清水康平氏を厳しく問い詰めたことにより、清水氏の意向に沿って、各国立の博物館や国立大学に佐野乾山に関する発言しないような圧力がかかったのです。その結果、真作派は、武蔵野美大助教授だった水尾比呂志以外はほとんど発言がなくなり、贋作派たちの言いたい放題になったのです。

もう一つの重要ポイントは、この本で落合先生の説を取り入れていることです。
私達真作説者にとって、真贋問題から37年を経た現在、まさに”晴天の霹靂”ともいうべきことなのだが、陶磁研究家落合莞爾氏の調査によって判明した事件を第十二章にも少し書いておいた。(中略)戦前(太平洋戦争)から陸軍特務機関員の画策によって、軍費調達のために中国陶磁器及び日本陶器(桃山・江戸時代)の倣陶(贋物)を、その当時の著名な学者や陶芸家を国策にそった協力という形で作陶に従事させたのである。(中略)もちろんこの中の誰かが乾山の作品を作ったことになり、それらの贋作は時の富豪や公私の美術館に売却され、ときには名品の折紙さえつけられて、公然と各展覧会などに出品されているとみられる。

このように、佐野乾山事件の裏には美術以外のいろいろな事柄が複雑に絡み合っていたと言えます。

佐野乾山に関して調べる方には必読の書です。



乾山に関しては、こちらもご覧下さい。
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む
・佐野乾山は美しい! 骨董のある風景 青柳瑞穂著 青柳 いずみこ 編 を読む
・乾山と言えば色絵陶器です! 「国際写真情報 」 を見る
・佐野乾山の真実! 尾形光琳二代目 乾山 細野耕三著 を読む
・藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む
・「開運! 何でも鑑定団」の鑑定士の本「ニセモノ師たち」 中島誠之助著 を読む

【佐野乾山に関しては、K's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm)】

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尾形乾山手控集成―下野佐野滞留期記録 (光琳・乾山関係文書集成)

宗達は本当に琳派か? 俵屋宗達 琳派の祖の真実 古田亮著 を読む [美術]


俵屋宗達 琳派の祖の真実 (平凡社新書)

琳派の人気はすごいものがあります。最近でいうと2008年に『尾形光琳生誕350周年記念「大琳派展-継承と変奏-」』という展覧会が東京国立博物館で開催されて20万人以上の方が見に行ったそうです。
この展覧会は、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一、鈴木其一の描いた4つの「風神雷神図」を一度に見られるということで評判になりました。私も行きましたが、宗達や光琳の風神雷神図には圧倒されました。

さて、この本の著者の古田亮氏は、1964年東京生まれ、1993年に東京国立博物館研究員、1998年東京国立近代美術館の主任研究官を経て、2006年から東京藝術大学大学美術館の助教授に就き、現在准教授だそうです。琳派に関していうと、2004年に国立近代美術館で開催した『「琳派 RIMPA」展』の企画展を担当したそうです。
その企画展を担当して、宗達に関して疑問をもったそうです。

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宗達は別格である
それはまさに、宗達の再発見というにふさわしい体験であった。まっさきに浮かんだことは、宗達は琳派なのかということだ。もちろん、そこには琳派とはいったい何を基準に考えればよいのかという根本的な問いもある。
琳派というのは、狩野派などの流派のように家系や師弟関係で流派の伝統技術を継承したものではなく、私淑という形でその芸術的な技法を受け継いできたことに特徴があります。Wikipediaには「琳派(りんぱ)とは、桃山時代後期に興り近代まで活躍した、同傾向の表現手法を用いる造形芸術上の流派、または美術家・工芸家らやその作品を指す名称である。本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展、酒井抱一・鈴木其一が江戸に定着させた。」との記載があります。
具体的には、俵屋宗達の風神雷神図を尾形光琳が模写しました。この時は実際の絵に紙を当てて同じ寸法で模写したそうです。その尾形光琳の風神雷神図を酒井抱一が模写し、鈴木其一がそれを引き継ぎます。これが琳派としてひとくくりに考えている根拠なのですが、酒井抱一は、光琳の風神雷神図は実際に見て、自分の絵を描きましたが、宗達の風神雷神図を見てはいないようです。

実際に宗達とともに多くの作品を目の当たりにして感じたことは、琳派というひとつのくくりで企画された展覧会であるはずなのに、宗達だけが別格な存在に映ったということだ。光琳以降の、私淑というかたちで継承された琳派のスタイルを知っている私たちは、つい宗達を琳派の祖として考えてしまいがちである。たしかにそれはひとつの考え方ではあるが、戦後の美術史観がつくり上げた琳派という幻想に過ぎないのではないか。
さて、その琳派の祖と言われる宗達ですが、生れた年も亡くなった年も分かっていないそうです。
いつどこで生れ、どういう環境で育ち、なぜ絵師になったのか。どういう人柄でどういう芸術観を持っていたのか。私たちが知りたいことは山ほどあるのに、それに応えてくれる文献資料がない。
謎の絵師と言えば東洲斎写楽が有名です。写楽には別人説があり、北斎などの30人以上の有名画家の名前があげられていますが、美術史家である水尾比呂志氏は、50年ほど前に「宗達=光悦説」を出したことがあります。本阿弥光悦は、芸術家・書家として知られており、宗達の描いた絵の上に光悦が書を描いたという作品が多く残されていますが、この絵も書も両方とも光悦が書いたというのが水尾氏の説でした。(後に氏はその説を撤回しています)そう考えた方が考えやすいくらいに、史料がない状況のようです。

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さて、宗達を模写した光琳の風神雷神図ですが、古田先生に言わせるとまったくダメということになります。(この本では、「あくまでも宗達からみた場合」と断っていますが...)
これは、画題の選定、構図、画法など弟子が勝手に解釈することが許されずに、そのまま伝承することで「派」を保っている他の流派と琳派の大きな違いであると古田先生は書きます。
・・・琳派の場合、光琳は宗達の、抱一は光琳の作品から「何を」学ぶかは、学ぶ側の自由なのである。それは自発的なものであるから、逆をいえば、深く熱い継承意欲がなければできない面もあるだろう。ただし、その受容の内容は、当の先人が伝えたいものだったとは限らない。

大ざっぱにいうと、宗達が風神と雷神に動きや躍動感を与えるために工夫した両者の配置や画角に対するフレーミングを光琳は全く無視して、模写をしてしまったということです。宗達が、雷神の連鼓をフレームからはみ出させることで、絵に躍動感を与えていたものを、光琳はすべてフレームの中に納めてしまったことで、制止した絵となってしまったのです。
ただし、これは古田先生が書くように、宗達側から見たもので、光琳からしてみると、「これこそが俺の風神雷神図だ!」ということになるのかも知れません。光琳の絵は、絵の躍動感というよりは、より平面的、デザイン的な絵を目指していたのかも知れません。

琳派に興味がある方にはお勧めの一冊です。

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もっと知りたい俵屋宗達―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)俵屋宗達 (新潮日本美術文庫)
俵屋宗達: 金銀の〈かざり〉の系譜聚美(しゅうび)7教科書に出てくる日本の画家〈1〉近世の画家―雪舟、葛飾北斎、俵屋宗達ほか週刊 アーティスト・ジャパン 15 俵屋宗達 (分冊百科シリーズ日本絵画の巨匠たち)
絵は語る (9) 松島図屏風-俵屋宗達筆 座敷からつづく海-琳派をめぐる三つの旅―宗達・光琳・抱一 (おはなし名画シリーズ)美術手帖 2008年 10月号 [雑誌]もっと知りたい尾形光琳―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)宗達伊勢物語図色紙

佐野乾山は美しい! 骨董のある風景 青柳瑞穂著 青柳 いずみこ 編 を読む [美術]

Sano Kenzan works are beautiful!
青柳瑞穂  骨董のある風景 (大人の本棚)この本は、仏文学者、詩人である青柳瑞穂の骨董蒐集に関するエッセイを孫である青柳いずみこさんが編集した本です。

瑞穂は1899年生まれで、趣味の骨董蒐集で有名になります。特に、尾形光琳の唯一の肖像画である「中村内蔵助像」や乾山の色絵角皿3枚を街の骨董屋から発掘して真作と認められています。瑞穂は、阿佐ヶ谷に住み、気に入った骨董が手に入ると「阿佐ヶ谷会」(中央線沿線の文士の会)のメンバーである亀井勝一郎や井伏鱒二、太宰治などに見せて自慢していたようです。

しかし、昭和初期の頃の文士がそれほど裕福だった訳はありません。瑞穂も自分の金ではなく、奥さんのお兄さんが骨董好きだったことを良いことに、お金を出してもらっていたようです。(ある意味ひどい話ですよね? 笑)

korin.JPGさて、有名な光琳の肖像画の話を紹介します。昭和12年10月、瑞穂の住んでいた阿佐ヶ谷から歩いて30分の青梅街道沿いの古物商で光琳画に出会ったそうです。
佐藤君の店には先客があって、落款を切るか切らぬとかの押問答を交わしていたが、私の知ったことじゃない。(中略)
すると、彼もあまり心証を害された風もなく、その代わり、かけものらしい幅をわたしに渡した。わたしは一端を彼に持ってもらい、一端をとって、すらすらとひらいていった。めくりのままである。(表装のしていない幅、ある意味では、最もみじめな状態)しかし、くりひろげてゆくうちに、賛が出てきた。(賛のあるものには偽物は少ない。)それから、一人の人物が現れた。上畳のうえにきちんと座っている。緑青、胡粉など、色あせているけれど、美しい諧調- 賛などよむ気にはなれず、ただわたしは見惚れていた。(中略)その右隅に落款が見える。落款は「法橋光琳」とある。とっさにわたしは思った。はは、これだな、さっきの切る切らぬは・・・。

TVの「何でも鑑定団」をご覧の方はよくご存じだと思いますが、掛け軸の9割以上はニセモノ、光琳や雪舟など本物が有るはずもないので、そのような有名人の落款が入っていると「ニセモノ」で5千円くらいですが、落款を取ってしまえば、「ニセモノ」ではなくて誰の絵か分からないけど江戸時代の古い絵となるので、10万円くらいに値が上がる可能性があるのです。それにしても、この時、落款を切られなくて本当に良かったと思います。
何せ、今知られている光琳の描いた肖像画はこれだけなのですから、落款がなければ「光琳に肖像画はありません!」と言われてニセモノにされていた可能性が高いと思います。ちなみにこの時に瑞穂は、7円50銭で買ったそうです。今の価値でいうと5万円くらいでしょうか? この絵は、その後、重要文化財に指定されました。

kikyou.JPGそしてその後、瑞穂は京都の三年坂と二年坂の骨董屋で乾山の色絵角皿を3枚手に入れることになります。この時も瑞穂は、乾山に関して、それほど知識があった訳ではないようです。そして、その当時の陶磁界においても尾形乾山に関してほとんど研究が進んでいなかったようです。
乾山といえば、私にかぎらず、おそらく誰でもが思い出すのは、あの東京博物館蔵の「黄山谷」と大倉集古館蔵の「寿老人」の二枚の皿であろう。万人が乾山の真作として認めるのは、今日ではともかく、私が三年坂で桔梗の絵皿を買ったあの頃では、この二つの作品よりほかなかったのである。

そして、瑞穂が道具屋で購入した桔梗の角皿をはじめとする3枚は、すんなりと真正乾山に認定さたようです。これは、その後の佐野乾山事件を考えると少し奇異な感じがします。前述のように、当時は乾山の研究はあまり進んでいませんでした。それにも関わらず、どうして佐野乾山だけは徹底的に批判されたのでしょうね。

そして、いよいよ佐野乾山に関する記載です。驚いたことに、瑞穂は有名な佐野乾山コレクターである森川勇氏よりも1,2年早い時期に同じハタ師の斉藤氏から佐野乾山を入手していました。
shanaire.JPGもう七、八年にもなるであろうか、佐野乾山というものが、一時にたくさん出てきた時、その真偽を争って、骨董商もふくめて世の中が大さわぎしたことがある。ぼくは、幸か不幸か、この佐野乾山にはいち早くお目にかかり、(おそらく、バーナード・リーチ氏以前と思うが)一目見て惚れ、知合いの道具屋の持って来るのを次々に買い求め、いよいよ好きになり、いかに数が増してもあきるということがなかった。さいわい、価も安かったので、ことごとく買うこともできるくらいだった。

ここで書いているバーナード・リーチ氏は森川氏の佐野乾山を見て「間違いなく本物!」と発言しました。このことが佐野乾山事件を有名にしました。これを読むと、瑞穂もかなりの数の佐野乾山を手に入れていたことが分かります。しかし、そのお気に入りの佐野乾山は、あるコレクターにケチを付けられることになります。
美しくもあるし、安くはあるし、ぼくはこんな幸運にめぐまれたのも、こんなものが好きだったからこそとばかり、骨董者のよろこびをひそかに楽しんでいたところ、ある夜、畏友の久志卓真氏がみえたので、いささか得意の気持ちで、同氏に披露した。久志卓真氏はぼくのように乾山好きで、ぼくも彼も鳴滝の乾山を信じ、彼もまたぼくの鳴滝の乾山を信じているような仲だったのである。
その彼がこれはいけないと言ったのである。ぼくはぞっとした。彼が言うには、この種の佐野乾山は町の骨董屋にたくさん出ているとのことである。ぼくはほとんど道具屋めぐりをしないので世間のことは知らず、こんなもの、ぼくだけが持っているつもりでいたのに、それが町にも出ているときけば、ぼくとしてもぞっとせざるを得ないのである。正直なはなし、久志氏の鑑定よりは、ぼくには町に出ていることの方がこたえた。
これにはいささか厭気がさし、全部茶箱に詰めて封印し、もうこれを忘れることにした。支払った金銭よりは、これがいけないことの方がつらかった。

この久志卓真氏というのは、もともとバイオリニストで作曲家だったそうですが、戦前、戦後を通し、陶磁器のコレクターとして知られた人で、中国陶磁器に詳しいようです。私も昭和47年に出版された久志氏の「乾山」を読んでみましたが、そこに掲載されている乾山作品のほとんどは現在では乾山の「真作」として通るものがないと思われます。そのような人が、七世乾山を継承したバーナード・リーチ氏に対して「乾山が分かっていない」というような記載をしています。このような人たちが佐野乾山をニセモノにしたんだと思うと悲しくなります。
どういうわけか、全国の道具商がこぞってこれを締出したために、佐野乾山は商品としては、ほとんど認められない運命になった。これはぼくとして、尾形乾山のためにはいかにも惜しい、残念なことだと思うが、これが偽物にされたことは、ぼくなど骨董者にはもっけのさいわいであった。なぜなら、もしこれが本物にされたら、ぼくの如き貧書生にはとうてい出が出ないからである。おそらく、数十万、いや、数百万もする乾山の槍梅の茶碗などにも劣らぬ、いや、それ以上と思われるものが、ぼくなどにもやすやすと手に入るのである。こんな仕合せがあろうか。

佐野乾山コレクターである住友慎一先生も同様なことを発言されていましたが、この気持ちは分かります。確かに、佐野乾山が本物として認められてしまうと、これまで安価で購入できたものが、一気に数百万円以上の高額になってしまうことは確実です。
佐野乾山が偽物とされたことは、乾山を愛好するぼくは惜しむ、と、いまさっき言ったばかりだが、真に乾山を理解し、愛好する者には、佐野乾山の美しさが分かるはずだと思われるので、こういう人たちの手に乾山がやすやすと入るのも、ひとえに乾山の徳ではないかと、ぼくとしてはかえってそれをたたえたい。つまり、ぼくにとっては、佐野乾山は偽物であっても、それが美しいかぎり、価値があるのである。美しかったら偽物であってもいいのである。そして、これが偽物の名を持つがゆえに、ぼくの如き骨董者の手にも入るのである。ありがたいことだ。

この意見も同感です。コレクターとしては、たとえ本物であったとしても美しくない乾山は買いたくないでしょう。鑑定団の中島誠之助氏が、何かの本で瑞穂に関して「光琳の絵を発見したことで欲が出てきたため、その後は目が曇った」という主旨のことを書いていましたが、私は同意できません。中島先生は瑞穂の書いた文章を読んだことあるのでしょうか?ここに書かれているように、コレクターとしての瑞穂の基準は、「美しい」か「美しくない」かだけです。佐野乾山に関しても乾山で儲けようとして買ったわけではなく、それが「美しいから」買っただけなのだと思います。

そして、瑞穂が佐野乾山が問題となった根本的な理由を書いています。
専門家といっても、しかし、これは陶器の専門家のことだろうか、それとも、絵画の専門家のことだろうか。絵画の専門家は、すでに乾山の絵画作品の幾点かを文化財にしてしている。そうなれば、陶器の専門家が怠慢だということになる。(中略)
陶器の専門家というものは、土質や焼成に重点をおく。一口にいえば、絵は分からなくても、陶器の専門家になり得るのである。ところで、乾山はあくまで絵で、土質や焼成は従である。その点で、むしろ絵画の専門家こそ、乾山を鑑定すべきだろうが、彼等は、陶器とくれば、すぐに土質や焼成を考えて、この点にコンプレックスを感じて、乾山陶を敬遠する傾向がある。後年、佐野乾山問題であんな混乱が起こったのも、要するに、陶器専門家に、そもそもの乾山というものの本質が十分理解されていなかったためだと、私はみている。

佐野乾山事件が起きた時、日本陶磁協会は陶芸家の意見を全面に出して贋作説を主張しました。「器の形が悪い」、「乾山の成形ではない」などなど。もともと乾山の器は、弟子などの工人が成形したと言われていますので、それをもって贋作と言っても何の説得力もないのですが、50年前はそのようなことも議論されていませんでした。乾山の芸術を理解できるのは、陶器の専門家ではなく絵画の専門家であるという瑞穂の主張は、とても説得力があります。
バーナード・リーチ氏は、陶工であり親友である富本憲吉や浜田庄司に関して、「富本は絵もわからないしなにもいわない。いえないのだ。悲しい。」と発言していたようです。

昭和の良き時代の骨董事情を知るにはとても良い本です。

乾山に関しては、こちらもご覧下さい。
・乾山と言えば色絵陶器です! 「国際写真情報 」 を見る
・佐野乾山の真実! 尾形光琳二代目 乾山 細野耕三著 を読む
・藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む
・「開運! 何でも鑑定団」の鑑定士の本「ニセモノ師たち」 中島誠之助著 を読む
落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

【佐野乾山に関しては、K's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm)】

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ささやかな日本発掘 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)青柳瑞穂の生涯―真贋のあわいに青柳瑞穂の生涯 真贋のあわいに (平凡社ライブラリー)

乾山と言えば色絵陶器です! 「国際写真情報 」 を見る。 [美術]

いわゆる「佐野乾山」事件から50年が経ちました。当時の関係者のほとんどが亡くなられており、この事件が風化してしまうことを懸念しています。
佐野乾山の経緯に関しては、以前このブログで書きました。
http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2010-12-25

当時、マスコミだけでなく国会でも議論された「佐野乾山」ですが、Webも無い時代ですので実物を見たことのある人はほとんどいない状態で、議論されていたようです。そして、贋作派の主張は、「色が多くてそうぞうしい」、「形が悪い」、「絵が真正乾山と違う」というようなものです。
しかし、もともと乾山の作品は、器の成形は弟子に任せたり、絵は兄の尾形光琳に描かせたものがほとんどで、乾山が描いた絵の陶器の作品は特定されていないそうです。しかも、京都の鳴滝時代から25年後に江戸、そして佐野に行くことになりますが、江戸での作品も明確になっていないとのことです。つまり、鳴滝で造った名品から25年後の佐野乾山までの間を埋める作品が分かっていないのです。

富本憲吉氏とともに六世乾山に師事し、七世乾山の皆伝目録を受けたバーナード・リーチ氏は、森川氏が所有していた佐野乾山を見て、「一目見て本物と思うばかりでなく、私が今まで見たなかでもっともすばらしい乾山の焼物です。」と絶賛しています。
私は、最初にこのコメントを読んだ時、「いくらなんでも言い過ぎ。光琳の絵付けした鳴滝時代の作品より良いなんてことはないだろう!」と思いました。そして、当時の作品の写真(ほとんどが白黒)を見ても、その意見は変わりませんでした。しかし、ここで紹介する「国際写真情報」に掲載されている写真を見て、その色絵の美しさに驚きました。やはり佐野乾山の色絵はカラ―で見なければその素晴らしさが分からないのだということを実感しました。
みなさんにもぜひ見て頂きたいと思います。

佐野乾山を見た感想です。
<バーナード・リーチ氏>
これは、素晴らしい! とても現代人にこれだけのものを作ることはできない。わたしはいま、ロンドンで日本が誇る作陶家:ケンザンの図録を編集中だが、この「佐野乾山」を見て、断乎、図録を改めなければならないだろう。ニセモノ説があると聞いて驚いている。滞日予定をのばして乾山研究がしたくなった。

<岡本太郎氏>
2つ3つと見るにつれ、なかなかイイジャナイカ。色が鮮やかなハーモニイで浮かび上がっている。筆捌きも見事だ。(中略)気取りやポーズ、とかくやきものに見られる枯れた渋み、いわゆる日本調みたいなものが無い。(中略)たとえニセモノだって、これだけ豊かなファンテジーの盛り上がりがあれば、本ものよりさらに本ものだ

「国際写真情報」1962年8月号 の記事を紹介します。著作権は切れていますので全文引用します。
(著作権の保護期間は、旧法:公表後33年、現行法でも公表後50年)
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第二の永仁の壺事件か、世紀の大発見かと美術界の話題をさらってしまった問題の”佐野乾山”はその後どうなったのか。美術ファンならずとも大いに興味をひく事件だけに、当編集部あてには、ひんぱんに問合せがよせられる始末。そこで、本誌では特に所蔵者森川勇氏から、その主な作品を誌上に公開してもらうこちにした。言うまでもなく、その真偽を云々するものではない。あくまでも、読者諸氏とともに”問題の乾山”を目の前に眺めようというだけである。誤解のなきよう、ここに断る。




乾山は発見されつくしたハズ・・・ たきつけたリーチのホンモノ説
さて、問題は今度新たに発見された点数が実に二百数十点(うち森川氏が百二十数点)という莫大な数である。尾形乾山の作品はすでに”発見されつくした”というのがこれまでのが学界での通説であったし、それに二百数十点というのは、これまで流通している乾山を上まわる数字であることから、この発見ニュースはスタートから”奇蹟”だったわけだ。

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ホンモノ、ニセモノ説に、更に輪をかけたのがバーナード・リーチの”ホンモノ”説であった。今年の新年早々に噂を耳にして森川氏をたずねたリーチは”ビックリ仰天”して、これまで二十年来続けていた研究をすて去り”新発見の乾山作品図録”にとりかかっている。ニセモノ説側にいわせると”いかに陶芸の大家であろうと、外国人に日本の古陶が一目で見分けられるものか”と一笑にふしているものの、リーチのこの発言と行動が、大きな波紋を作りだしたことは事実である。

ながれた新旧乾山の 並列展覧会 ホンモノとなれば大きな社会問題
こうした古美術の真偽鑑定のむつかしさは月旅行もやがて可能だという二十世紀の今日であっても、容易に解決できるものではない。
. ホンモノ、ニセモノ論争は日増しにつのる中で、読売新聞社の主催企画によって、新発見の乾山とニセモノ説を主張する日本陶磁協会側所有の乾山を同時陳列して公開し、いずれがホンモノかを一般に鑑定させようということになった。そして会場も白木屋デパートに決定したが、日本陶磁協会の側が、これに応じなくなり、この興味ある展覧会は流れてしまったのである。


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これで両者の対決は実現しなかったが、真か偽の論争はその後もはげしくくすぶり続けようやく、国会でも文教委員会で特別小委員会が作られ、乾山問題についての、正しい研究が行われるように配慮されるまでに至った。 しかし、この委員会とて真偽の判定は無理なことだが、問題の乾山が正しく研究されるような気運になりつつあることは好ましいことである。森川氏らの新乾山が、もしホンモノとなると、これは大きな社会問題である。ということは、尾形乾山作は二百数十点しかないのに、倍の四百数十点になる。あくまでも二百数十点しかない乾山としたら、これまでの二百数十点はニセモノということになりかねないからだ。(どういう論理だ?:引用者注)しかも乾山はいずれも一点百万円が相場である。こうしてみると、興味の尽きない乾山騒動だが、それだけに慎重に、公平に、あくまで純粋に見守るべきである。


落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

【佐野乾山に関しては、K's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm)】

"Sano Kenzan Scandal ”

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天下の茶道具、鑑定士・中島の眼 中島誠之助著 を読む [美術]


天下の茶道具、鑑定士・中島の眼: 『へうげもの名品名席』実見記
この本は、副題を『「へうげもの名品名席」実見記』と付けられている通り、人気コミックの「へうげもの」に出てくる大名物の逸品を鑑定士の中島誠之助氏が実見するという内容です。マンガ大賞を受賞した「へうげもの」をNHKアニメ化した時に番組の後に「へうげもの名品名席」という紹介番組を中島氏が担当したそうです。(私は見ていません笑)

この番組は一年間毎週のように収録のロケがあるので当初は中島氏も引き受けるべきか迷ったそうです。
「乱暴な仕事をしたくないというのが私の信条である。その前に私自身が、「へうげもの」というマンガを読んだことも目にしたこともないのだ。(中略)
織部のことなら桑田忠親著『古田織部』(徳間書店、1968年)に、織部本人の消息(手紙などのこと)に基づく詳細な研究が記述されていると述べれば、じつは「へうげもの」は桑田本の漫画化でもあるのですという。驚いた私はその場で娘の森由美に電話して尋ねたところ、「へうげもの」全巻を持っているという。早速それを貸してもらって目通しすることにした。

私たちは中島誠之助氏のように著名な鑑定士であれば、いつも名品の数々を見ていると考えてしまいますが、実際には違うようですね。
利休の流れを汲む織部の事跡となれば、現在に知られている桃山時代の茶器のほとんどを網羅していることになる。それらの名器を三十数点も拝見出来るなどということは、茶会にしばしば出入りしている現役の茶道具商であっても不可能に近い。まして私のように、鑑定士の役柄でテレビ出演に忙しい人間にとっては見果てぬ夢である。

さて、この中島氏の大名物との邂逅は36話まで続きますので、最初の一つだけ紹介します。

第一話 天下人が手にした、天下一の茶入 唐物肩衝茶入「初花」
徳川十八代宗家を訪ねたのは、冷気の張りつめた一月初旬の朝であった。天下第一の名器と称された「初花肩衝」を拝見するのに、実に相応しい日柄である。早朝に自宅の近くにある代田八幡宮にお参りして身を清めてから、代々木の徳川邸に向かったのだ。今のご時勢になんと大げさなといわれればそれまでだが、信長が持ち、秀吉が愛玩し、家康が所持した名器を拝見するならば、そのくらいの覚悟と緊張感があってよいのではないだろうか。

考えて見ると、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人が確実に手に触れたものなど、これ以外無いのではないでしょうか。そう考えると茶道具というものは本当に恐ろしくも素晴らしいものだと思います。これこそ、戦国時代から続く日本の茶道の伝統のなせるわざだと思います。
その天下の一品に対しては中島氏もかなり緊張したようで、収録後、突然耳が聞こえなくなったそうです。
第一回「初花」の収録では緊張のあまり徳川宗家を辞してから、車の中で突発性難聴症になり十五時間も無音の世界にいた。「初花」はそれほどの名器であった。

さて、その「初花」に対する中島氏の記述を少し長いですが、最後に紹介します。
hatsuhana.JPG
袋から取り出された初花肩衝は神々しいくらいの気品に満ちている。南宋時代の作と考えられるが、昨日窯から出たばかりのように艶がよく輝いている。全体がふっくらとした趣で、仏顔を思わせる胴のまろやかさが、畳付の底部に向かってすっとしぼむ。口縁は鋭く外に返して、頸部には二本の浮き線がある。肩衝といえども柔らかい。胴に一本の横線があり胴長を引き締める。高台は板起しで、底部は土が皺を見せる。(中略)
手取りは余りにも軽やかで、一見した量感と対照的である。このことはきわめて薄い轆轤引きによるものであろう。手に取れば風の如く、置けば盤石の感が湧く。象牙の蓋は白に近く一筋の縞が入っている。すべてが清潔感に溢れているのだ。

この本では、36品の茶道具が紹介されていますが、すべて上に書いたような中島氏の実見の感想が述べられています。
これは、茶道具や古美術について興味がある方にはたまらない本だと思います。

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ニセモノ師たち (講談社文庫)ニセモノはなぜ、人を騙すのか? (角川oneテーマ21 C 135)やきもの百科―鑑定の入り口中島誠之助 やきもの鑑定五十年 (新人物往来社文庫)骨董の真贋―この「約束事」が本物を見分ける (サラ・ブックス)

陶磁器の入門書に最適! 一個人 やきもの入門 を読む [美術]


やきもの入門
仙台に遊びに行った時、青葉城の近くにあるセブンイレブンで売っていたので買ってしまった本です。
コンビニで、マンガ以外の本が置いてあると思わず買ってしまいますよね? お店の戦略にまんまと乗ってしまう私です。(^^)

内容は、以下の通りです。一般に陶磁器関連の本は高いので、これで500円(ソフトカバー)なら買いでしょう!

●やきものの基本の「き」
陶器と磁器の違い、釉や文様の違いが丸分かり!
●天下人を夢中にさせた「名物」物語
名物茶碗は天下の証なり信長、秀吉、家康 ・・・ 伝説の茶器めぐり
●やきものの歴史と代表的作家を辿る
縄文土器から茶陶文化全盛時代、現代アートまで
●作陶入門
土練り、成形から焼成まで やきものができるまでを誌上体験
●全国のやきものの里を歩く
歴史ある名陶を訪ねて、見て触れる産地別やきものの見方・愉しみ方
●全国やきもの産地マップ
備前焼 有田焼 唐津焼 九谷焼 瀬戸焼 美濃焼 萩焼 京焼 信楽焼
●現代の陶芸の人間国宝 珠玉の銘品
日本が誇る陶芸家たちの匠の技に触れる

この中で、やはり面白いのが「天下人を夢中にさせた「名物」物語」ですね。コミックの「へうげもの」で一躍有名になりましたが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など天下人の名物茶道具の蒐集物語は興味深いです。
特に織田信長は、「名物狩り」と呼ばれる、強制的に有名な名物茶道具の蒐集を行いました。ここでいう「名物」とは、古来より名高く、著名な「名物記」にも記された名物茶器を言います。名物と認められた茶器は、一つの茶碗や茶入れだけで今のお金で何億円もの値段がついていました。

当時は、千利休による茶の湯が戦国武士たちの間でブームになっていましたので、荒木村重や松永弾正のように家臣や住民の命を犠牲にしてまで自分の所有している名物茶器を守る人たちもいました。それほど当時の戦国武士たちにとって茶道具の魅力は大きかったと言えます。

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この本では、「曜変天目」、「上杉瓢箪」、「付藻茄子」、「初花」、「松花」の五大「名物」の伝来の系譜が説明されています。室町、安土桃山、江戸と時代が移る中、足利義政、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と「名物」茶器の所有者が転々としたことが分かります。特にこの中で信長、秀吉、家康の3人の天下人に伝来した「初花」は有名です。



そして、コミック「へうげもの」で一躍有名になった古田織部に関しては、
・茶陶文化を盛り上げたカリスマコーディネーター
・謎多き大名・織部の比肩なきカリスマぶり
と書かれています。ここで興味深いのは、以下の記述です。
織部は、美濃の織部焼という斬新な茶陶を生み出した茶人という連想が弾むが、これは江戸中期の新造語だった織部焼という言葉に惑わされた概念のようである。
もろもろの資料からは美濃焼に指示を与えるデザイナーという姿は見えず、むしろ、渋い茶陶である新興の唐津焼を好んで用いる織部が茶会記には強調される。

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「へうげもの」の世界、「茶の湯」を知るにはこの本! 図説「茶の湯」入門 [美術]


まるごとわかる!図説「茶の湯」入門: 人気コミック「へうげもの」が友情出演! (学研ムック)「茶の湯」の入門書のムックです。
お茶を飲むという行為は世界じゅうで行われています。しかしそこに美を見出し、芸術までに高めたのは日本人だけです。この点から、「茶の湯」を知ることは日本人を知ることだとも言われます。本書はそのための第一歩を手助けするための入門書です。茶の湯が大きく発展した安土桃山時代を中心に、理解に必要な項目を厳選して構成しました。利休、織部から茶事のマナーまで、本書で茶の湯のキホンを学んでいきましょう!

この本の構成は以下の通りです。

Part茶の湯の歴史を知る
徹底比較 織部と利休 ”二人の革命児”の美意識とは!?
「茶の湯」人物伝
Part2 茶碗を知る
茶碗の歴史と見どころを知る
茶碗の観賞ポイントを知ろう
Part3 茶室を知る
茶室と露地
茶室の変遷をたどる
Part4 茶道具を知る
名品! 逸品! 茶道具ガイド
Part5 茶事と茶会を知る
茶事と茶会の基礎知識
茶の湯の飲み方
懐石

へうげもの(1) (モーニングKC (1487))

この本で面白いのが、Part1の”「茶の湯」人物伝”でコミック「へうげもの」の名シーンを使用していることです。「へうげもの」ファンにはたまらないですね。(^^)
松永久秀、荒木村重、明智光秀、蒲生氏郷、津田宗久、今井宗久、山上宗二、ノ貫、高山右近 が紹介されています。


kenzankuroraku.JPGちょっと違和感があったのが、Part2の”茶碗を知る”の一番最初に大きく1項を使って写真で紹介されているのが、乾山の黒楽茶碗であることです。(左図)
私は乾山の大ファンなので、乾山の茶碗を紹介されるのはうれしいことですが、茶の湯の名品として最初に紹介されるのことに関してはかなり違和感があります。
茶の湯の世界で、長次郎作の楽茶碗よりも先に紹介されるのであれば、残念ながら乾山の茶碗ではなく、光悦の茶碗ではないか?というのが正直な感想です。光悦には「時雨」など黒楽茶椀の名品がありますので。
茶の湯の茶碗に関する本は、何冊か持っていますが乾山の黒楽茶碗が紹介されているのを見たことがありませんし、乾山の本や展覧会の図録を見てもこの黒楽茶碗を見たことがありません。乾山研究者の中には、リチャード・ウィルソン氏のように、「乾山は黒楽茶碗を作らなかった。黒楽茶碗は二代目の作である。」という極端なことを主張している人もいます。(私はそうは思いませんが)

いずれにしても、乾山の代表作とも言えない黒楽茶碗が、茶の湯の茶碗の一番最初に紹介されていることに関しては、編集者の意図がまったく理解できません。

とは言えその点をのぞけば、この本は茶の湯の入門書としてはとても読みやすい、良い本だと思います。
茶の湯に興味のある方にはお勧めです。

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DVDで覚える茶の湯―お茶のお稽古入門書サライの「茶の湯」大全 (サライ ムック)決定版 はじめての茶の湯―点前の基本から茶事まで 表千家家元の指導による最新版の茶の湯入門書 (主婦の友新実用BOOKS Hobby)もしも利休があなたを招いたら  茶の湯に学ぶ”逆説”のもてなし (角川oneテーマ21)「茶の湯」入門―美しい作法が身につく「茶の湯」入門

安宅コレクションを堪能する 東洋陶磁の美 サントリー美術館 を見る [美術]

TMT1.JPG東京六本木の東京ミッドタウンにあるサントリー美術館で「東洋陶磁の美」展が開催されています。
これは、大阪市立東洋陶磁美術館所蔵の国宝2点、重要文化財12点を含む「安宅コレクション」名品140点を厳選した展覧会です。

中国陶磁器が大好きな私はすでに2回見に行きました。中国陶磁器の逸品がそろっています。

東京ミッドタウンのふき抜けのところに展覧会の垂れ幕が掛っています。






下の写真は今回の展覧会の目玉の一つである、国宝「飛青磁 花生」です。
国宝に指定されている中国陶磁はわずかに8点しかありませんが、そのうちの一つです。鴻池家伝来の名品です。
流麗かつふくよかな形と釉薬の色が絶妙です。そして青磁釉の中に描かれた鉄釉の斑点が何とも言えないアクセントとなっています。 会場を一回りした後に何度も見に戻って目に焼き付けてきました。
これ、欲しいです。(笑)
(展覧会のHP:http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/11vol07/index.html より)
tobiseiji.JPG


















img10.jpg今回展示されているもう一つの国宝です。
油滴天目はいくつか有名な品がありますが、若狭・酒井家伝来のこの油滴天目がもっとも油滴の現れ方が豪華で華やぎがあると言われています。この天目茶碗は、写真では良く見ているのでおなじみなのですが、実物は意外と小ぶりだったので驚きました。「名品であるほど実物は小さく見える」と言いますので、やはり名品なのでしょうね。


美の猟犬―安宅コレクション余聞さて、この「安宅コレクション」ですが、安宅産業の創業者の息子で会長だった安宅栄一郎氏が、社費を使って購入したものです。その国宝2点、重要文化財12点を含む約1,000点にも及ぶコレクションは、中国陶磁と韓国陶磁が中心となっている貴重なものです。このコレクションは総額約152億円にも及ぶ住友グループからの寄付金で大阪市に寄贈され、それをもとに東洋陶磁美術館が作られました。

安宅氏は創業者一族ではありますが、2%程度の株しか保有していないにもかかわらず社内で大きな権限を持っていました。それを利用して会社のお金で購入したのが、この「安宅コレクション」なのです。公私混同もはなはだしく、今だったらコンプライアンス違反で大きな問題となるでしょうね。(^^)

今回の展覧会を見るとコレクターとしての安宅氏の目が素晴らしかったことがよくわかります。
上にあげた本の著者である伊藤郁太郎氏(東洋陶磁美術館初代館長)は、安宅氏の秘書のような立場でした。氏の本から安宅氏のコメントを紹介します。氏のコレクターとしてのポリシーが見えますね。
「三顧の礼をもって、ものは迎えなければなりません」
「人にお辞儀しているわけではなく、その後ろにものが見えるのですよ。ものに向かっては、いくらお辞儀しても、し過ぎることはありません。」
「人でも、ものでも、結局のところは品ですね。品格が大切です」
さて、国宝の「飛青磁 花生」を購入した時の話を紹介します。
筆者(伊藤郁太郎氏)は役員会に呼び出された。全役員の前に座らされた筆者は、いきなり当時の猪崎久太郎社長から大変な叱責を受けた。筆者としてはどう答えてよいか判らぬまま、「会長のご命令で、動いているだけです。私の行為が問題になるようでしたら、会長にお伺い下さい」と答えるだけ。こう開き直られると、社長も挙げた手を振り下ろすのに困ったのか、手で追い払う素振りを見せ、筆者はようやく無罪放免となった。

安宅産業は、1975年に経営破たんすることになりますが、最終的には伊藤忠商事に吸収合併されました。その破たんの原因の一つに会長の安宅氏を筆頭とした安宅ファミリーの影響があげられています。安宅ファミリーは公私混同が激しく、氏の陶磁器コレクションの他に専務であった氏の息子も子会社の「安宅興産」を通して40数台にもおよぶクラッシックカーを購入していたそうです。当時の社員だった方々にはお気の毒としか言いようがありません。

そういう意味で、「安宅コレクション」は安宅産業という企業の財力を使ったからこそ、あれだけの逸品を蒐集することができたと言えます。

陶磁器に興味がある方には必見の展示会ですね。

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中国の陶磁―平凡社版 (11)中国陶磁の八千年―乱世の峻厳美・泰平の優美元・明の青花 (中国の陶磁)明の五彩 (中国の陶磁)三彩 (中国の陶磁)青磁 (中国の陶磁)中国の陶磁 (やきもの名鑑)


写楽は北斎か? 「写楽」問題は終わっていない 田中英道著を読む [美術]


「写楽」問題は終わっていない(祥伝社新書260)

写楽、別人説に関しての本です。
著者は浮世絵の専門家ではなく、西洋美術史が専門の田中英道氏です。田中氏は「写楽は北斎である」との主張をされていますが、美術界の通例通り門外漢の主張に対して徹底的に無視されているようです。



syaraku.JPG写楽は寛政6年から7年にかけての約1年弱の期間に約150点あまりの作品を残して忽然と消えたため、謎の絵師と言われています。写楽と言えば、この絵のように背景に雲母摺という高価な手法を使い、役者の顔をデフォルメした大首絵で有名です。
しかし、当時は「あまりに真を画かんとして、あらぬさまにかきしかば、長く世に行なわれず、一両年にして止む」と言われたように、人気がなく1年余りで制作を止めたと言われています。
歌舞伎役者を題材とした浮世絵は、もともと役者のブロマイドのようなものですので、見たままを描くのではなく実物以上に良く描くのが一般的でした。しかし写楽は顔に皺やたるみのあるものはそのまま描いたりしていますので、歌舞伎ファンはもとより役者本人も買いたくないような作品だったのだと思います。ですので、当時の絵師やマニアの間では有名だったでしょうが、一般的には不人気な絵師というのが写楽の評価だったと思われます。
ところが、明治43年にドイツの美術研究家であるユリウス・クルトが著書の『SHARAKU』の中で写楽はレンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家であると激賞したことから、日本国内でも写楽ブームが起こることになります。
つまり、クルトが注目する明治43年以前は写楽は不人気な絵師だったため贋作がない、というのが一般的な見方です。(不人気な画家、作家の贋作を作っても売れないので作る意味がない)

このように実力のある絵師が突然現れて、1年で姿を消したことから「写楽は有名絵師が名を変えて出した」という写楽別人説が出され、候補としては、歌川豊国、歌舞妓堂艶鏡、葛飾北斎、喜多川歌麿、司馬江漢、谷文晁、円山応挙、山東京伝、中村此蔵、土井有隣、十返舎一九、谷素外など多くの名前があげられました。
ところが近年、「写楽」の謎はもはや存在しない、「写楽」問題は終わった、とする説が学界のみならず一般にも有力になってきました。江戸時代の「増補浮世絵類考」で写楽の正体として記された阿波の能役者・斉藤十郎兵衛の実在が確認されたこともありますが、2007年、ギリシャのコルフ島で発見された「東洲斎写楽画」との署名が入った肉筆の扇画面が、専門家によって真蹟と鑑定されたことで、その動きは一気に強まりました。
この扇面画には写楽が消えたはずの寛政七年という年記があり、この絵が本物であれば、写楽は浮世絵の活動をやめた後も絵を描いていたことになります。その結果、多くの写楽別人説は成り立たなくなり、私の「写楽=北斎」説も、寛政六年の一年が北斎の活動の空白期にあたることが根拠の一つでしたから、消えてしまいます。
田中氏は、ギリシアで発見された写楽の肉筆画(下図)は、写楽の筆ではないと主張します。
sharaku1.JPG












この肉筆画に関しては、以前このブログでも紹介しました。
http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2009-08-09-1

前回のグログでははっきりと書きませんでしたが、私もこの肉筆画が写楽の筆によるものであるとは考えていません。これは私の印象論ですが、写楽の画としての力強さも迫力を何も感じないというのが理由です。また、同じ絵師による作品でも浮世絵と肉筆画では、微妙に描写や印象が違うのが普通ですが、この扇図は、写楽の浮世絵をそのまま写したような絵にしか見えません。
この写楽の肉筆画に関して、田中氏は、以下のように書いています。
一見して、これはとうてい写楽作ではないと感じざるをえませんでした。それは何かというと、これはわれわれ研究者の画を見るときの原則なのですが、ディテール、筆の描き方、筆のさばきです。それが写楽とは別に絵師の手になると思われるものでした。
加えて、肉筆で扇面画を描くことは、結局余技として描くわけで、こうしたものを写楽が手掛けるはずがないと、私は直感的に思ったのですが、小林忠氏、浅野秀剛史、辻惟雄氏ら近世絵画の専門家たちは、みな異口同音に写楽と認めているので、そういう考え方に対して私は非常に疑問を感じたのです。(中略)
ところがこの肉筆画が出てきて、その絵が思いのほか稚拙であったことで、斉藤十郎兵衛説が逆に肯定される根拠とされているのは驚きを通りこして、あきれるしかありません。つまり写楽は実は絵が下手だった、写楽画が優れているのは、彫り師の腕によるもので、斉藤十郎兵衛はもともとが素人で、つまり能役者だった者が描いたのだから、それも無理はないのだと、むしろ肯定する論になっていくのです。

田中氏は、この肉筆画の作者は「高島おひさ」の団扇図に写楽画を描いたことで知られる栄松斎長喜であると書いています。
筆遣いも同じ、団扇図自体のたどたどしく、スピード感のない筆致も共通しており、同じ作家の手であると判断されます。今回の肉筆扇面画にも団扇図にも共通する、精彩のない線描から推測されることです。これは模写画を描く絵師の通幣といえます。

そして、田中氏は「写楽は北斎である」と主張します。その理由は、
①北斎は、当時役者絵を多く描いていた勝川派に属して勝川春朗と名乗っており、写楽が登場した寛政6年から7年まで消息を絶っている。
②「風山本 浮世絵類考」に二代目北斎=写楽との記載があり「墨田川両岸一覧」の作者と書かれているが、「墨田川両岸一覧」を描いたのは北斎である。
③写楽と勝川春朗の浮世絵の筆致、質感、発想に共通点が多い。

北斎の名前は「アホくさい」から取ったとも言われてますので写楽斎の「しゃらくさい」との関連性も感じますね。田中氏の論にはかなりの説得力を感じますが、浮世絵の世界では西洋美術の専門家の主張ということで、無視されているようです。

私としては別の理由で「写楽=北斎説」には同意できませんが、それについては別に書きます。

写楽に関してはこちらもどうぞ。
・写楽は欄間彫りの「庄六」だ! 「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』を六代・豊国が検証した」 六代歌川豊国著を読む
・江戸美術考現学 浮世絵の―光と影  仁科又亮著 を読む
・美術評論家の瀬木慎一を悼む

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レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯 (講談社学術文庫)日本美術 傑作の見方・感じ方 (PHP新書)実証 写楽は北斎である―西洋美術史の手法が解き明かした真実
聖徳太子虚構説を排す ミケランジェロ (講談社学術文庫)
画家と自画像―描かれた西洋の精神 (講談社学術文庫)

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