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琳派 尾形乾山の書を考える その2 乾山の字母について [尾形乾山]

さて、今回は乾山の文字の字母について考えてみます。

前回紹介した、1982年に五島美術館で開催された「乾山の絵画」の図録に、当時五島美術館の工芸課長であった竹内順一先生の「尾形乾山に関する主要論文概要」という論考が掲載されています。その中に驚いた事に佐野乾山に関する記載がありました。
(新発見佐野乾山の紹介とその反論の中で)一つだけとりあげたい論文がある。それは乾山の書(筆跡)を扱ったもので、過去の研究ではまったく行われなかった方法論にもとづくものであるからだ(正確にいえば書道史ではごくあたり前の方法論だが、それが乾山作品に応用されたことに意義がある)。加瀬藤圃「乾山字母表に就いて」(『陶説』113、114号 昭和37年)がそれで、乾山の使用した字母(くずし字の母体の字)を系統的にあつめて、乾山の書の特質(この場合は新発見佐野乾山の書体と、乾山晩年の画賛のそれとの比較対照)を論じたもの。書の遺品は、乾山の場合25歳から晩年まで残されており、字母表作成に限定しなくとも、筆跡の年代を系統づけることは、乾山研究に重要な成果をもたらすだろう。(『乾山の絵画』1982年 五島美術館 P207)

この加瀬藤圃氏の論文は、『陶説』という日本陶磁協会の機関誌に掲載されました。佐野乾山が論争になっていた頃、この加瀬氏の佐野乾山の陶器と手控えに対する否定論は陶磁協会の有力な論拠となっていたように思えます。
加瀬氏の論考は、他の陶磁協会のメンバーのように、「絵が悪い」、「器が悪い」、「絵が騒々しい」などのように、どの作品を見て言っているのか分からないような批判と違って、当該の作品や手控え等を特定して批判を加えているので、きちんと議論できる内容です。その点では評価に値する論考だと思います。

この論考については、K's HomePage においてすでに反論がなされています。(http://kaysan.net/sano/kasetouho2.htm
そのため詳細は割愛しますが、結論を簡単に言うと、「文字の比較対象が間違っているので結論も間違っている」ということです。
乾山が絵画や陶器に書いている賛は作品の一部であり、絵や空間など全体のバランスを見て字母や字体を選択しています。「ここは通常の平仮名では弱いのでこの字母を使おう」、「ここにはこの字体を使おう」というような作者の意志が働いています。一方、手控帖は言わばメモのようなものですから、思いついた事をそのまま、字の種類を選ぶ事なく書いていますので字母の数が少なくなり、字体が異なるのは当然です。

まあ、加瀬氏の論考に関してはこれで「終了!」なのですが、それだけだと加瀬氏の論考内容は正しいと思われかねないので、明らかな間違いを何点か指摘しておきましょう。

陶説1S.JPG①「あ」に関して

このめづらしいあの字(阿)が無数にある。それは真物と思えるものには一字もかかれていない。佐野新乾山「阿」にあって、乾山真蹟に一字も見当たらないものなのである」(113号P42)
と加瀬氏は自信満々に書いています。

しかし、左の図の赤線で示した部分に、その「阿」が使われています。この図はどこから持ってきたかと言うと、なんとこの加瀬氏の論文が掲載されている『陶説』113号の白黒の口絵の1番最初に「乾山作 桜絵画賛四方皿」として掲載されているものです。(^^)
これは、愛陶家大屋敦氏の所蔵品のようで、陶磁協会理事長である梅沢彦太郎氏、久志卓真氏がインタービューをしているようですので、当然陶磁協会公認の乾山ということになります。

加瀬氏の論考を読むと、乾山の絵画は良く見ているようですが陶器の方はあまり見ていない印象を持ちましたが、やっぱりと言う感じです。まあ、加瀬氏は『陶説』のこの号にこの乾山が掲載される事は知らなかったのだと思いますが、残念でしたという感じです。

雪竹図文字 1.JPG②「し」に関して

シについていえば、乾山晩年はシをことごとく「|」にかいて単独体が多い。たとえば八ツ橋の画賛は「|」が4ヶあって一つも連綿がない。七十九才筆の雪竹画賛は、一首の和歌に3ヶの「|」があるがみな単独体である。(中略) 新乾山は連綿体をおもに用いている。(中略)そして無理に右から中心に運ぶ運筆は、軽々しくて御話にならない。真乾山の堂々たる直線をひいたのと比較すれば、何人も全然別手なることをうなづけることであろう。」(114号P29-30)

加瀬氏の取りあげている雪竹図の当該部分を左に示します。赤枠の部分が「し」の単独体です。確かに、特徴的な「し」であり、「乾山ならでは」と言いたくなるのも分かります。
しかし、いくつかの作品に使っていないからといって「一つも連綿がない」というのは、あまりにも強引です。
しの連綿体.JPG上のように加瀬氏は滔々と述べていますが、乾山晩年の八十一歳の十二カ月和歌花鳥図の十月の中に左に示したような「まし」という単独体ではなく連綿体で書かれているものがあります。(「乾山の絵画」P18 )
この作品は、加瀬氏が調査した作品に入っていますのでこの部分は見落としたのだと思います。これは考えてみれば当然で、乾山の使った「|」は特殊な書体ですので、作品によって使い分けるものだと思います。
いずれにしても、「晩年には単独体しか使わなかった」というのはどう考えても言い過ぎです。

紫式部ss.JPG③「て」に関して

次はテであるが、真乾山は普通の「て」をかく。新乾山は「亭」このテをかく。(中略)真乾山は絶対この「亭」はつかわなかったと思う。」(114号 P32)

確かに、佐野乾山で良く使われている「亭」の字に関しては、私もこれまでの乾山の文字では見た事がありませんでしたので、「これは加瀬氏の言う通りかもしれない」と思っていました。
しかし、いろいろな本を調べてみると、1987年に五島美術館で開催された「乾山の陶芸」の図録P44に、左に示すような赤枠で囲った「亭」を使用した例がありました。

紫式部

巡りあひて」 ⇒ 「免倶李逢

この展覧会の作品選定には、大御所である林屋晴三、山根有三両氏が関わっていたそうですから、作品の真贋に関しては懸念はなさそうですし、私が見ても乾山作品に間違いないと思います。
これも加瀬氏が乾山の陶器をよく見ていない証左だと思います。

以上、簡単に述べましたが、これまであまり批判のされた事のない加瀬氏の論考ですが、探せばまだまだ反論できそうな所があると思います。加瀬氏が主張する「乾山は絶対に◎◎は使わなかった」などと言う事は、乾山本人にしか知りえない話で、限られたサンプル調査では言えるはずがありません。せいぜい言えるのは「私の知っている範囲では◎◎は使わなかった」というくらいでしょう。

また、加瀬氏は、佐野乾山の手控帖は、現代人が書いたものであると言いたいがため、「そして圧倒的に平仮名の普通のソを新乾山はかく。ここにも現代人らしい感覚が伺えるのである。」(114号 P31) というような表現を多く用いています。これを読むと、江戸時代以前には私たちが使っている平仮名を使わなかったかのような印象を受けますが、実際には昔から平仮名も当然使われていました。これも印象操作の一例ですね。

さらに言うと加瀬氏の発言の問題は、これまで書いたようにいろいろと突っ込み所がある内容にもかかわらず、
猶問題になっても真物とみせようとした、森川氏は、まづ第一の明き盲で、これを絶賞して已まなかった美術史家の数氏は、尚一段の半鑒耳食の徒である。その愚劣低見論ずるに足らぬヘボ学者である。二世紀以前の作品と今窯からでたばかりの下劣醜陋なるものとを辨別出来ぬとあっては、今までなにを勉強されていたかといいたい。(114号 P52)」

というような超上から目線で断言することです。古美術の世界では、絶対に正しいと言える証拠など無いのですから真剣に考えている人ほど、多くの可能性を想定します。そのため、どうしても「~と思われる」、「~という可能性が高い」などのように弱い表現が多くなります。そのため、加瀬氏のように強い表現で断言されると、普通の人は信用して正しいと思ってしまう事になります。
それにしても、加瀬氏の発言は他者に対するリスペクトのかけらも無いですね~。

私も少し加瀬氏を見習って書いてみましょう。
加瀬氏の論考は、上に書いたように手法はともかく比較対象がまったくダメで御話にならない。当然結論も間違っている。また、検討内容についても上に例として3点挙げたように基本的な間違いが多くてまったく杜撰な内容である。陶工である乾山の器を研究していないにもかかわらず乾山の全てを分かった気になって書いているのは笑止千万だ。何年も乾山の書と字母を研究されてきたそうであるが、これまで何を勉強されてきたのかといいたい。
どうでしょうか? 加瀬氏に比べるとまだまだ目線が低くて表現が弱いですかね? (^^)

議論をすることは重要で必要ですが、相手に対するリスペクトを忘れないようにしましょう。
以上のように加瀬氏の論考は、不正確な点が多く、再検討が必要な内容だと思います。

乾山の書に関しては、こちらもどうぞ。
・琳派 尾形乾山の書を考える その1

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乾山焼入門

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琳派 尾形乾山の書を考える その1 [尾形乾山]

さて、今回は陶工尾形乾山の仮名文字について考えてみます。

尾形乾山は陶工ですが、鳴滝時代や二条丁子屋時代などは、乾山窯の窯主やプロデューサー、デザイナーとしての仕事がメインであり、実際の作陶や絵付け、焼成などは弟子や絵師にやらせていたと言われています。作品に対する乾山の仕事としては、大事な作品に画賛を入れたり、「乾山」銘を書き入れたりすることだと考えられます。つまり、乾山焼における乾山の仕事の見どころは、作品に書かれた文字であると言えます。

しかし、それにもかかわらず乾山関連の書籍、図録等を眺めて見ても乾山の書いた文字に関する考察はあまり見た事がありません。

KenzankaigaSs.JPGそのような状況で、私が参考にさせてもらっているのが1982年に五島美術館で開催された「乾山の絵画」展の図録です。これは大変な労作で、私のような初心者にはとても参考になる本です。

この展覧会は、陶工尾形乾山の陶器の展示を代表作の数点にとどめて、「可能なかぎりの乾山の絵を集めて資料を提供することを第一の目的としました。」(唐澤勲館長)という乾山の作品展としては画期的な展覧会でした。

乾山は、たくさんの絵画を残していますが、そのほとんどは京都から江戸に移った以降のものです。そして、その絵画の多くに自賛が添えられていて、乾山の文字を見る参考になります。乾山の陶工としての作品は、乾山自身の絵付けの作品が特定できていないため自画自賛の作品を特定できませんが、絵画の場合はほとんどが自画自賛です。

乾山作品だけでなく、古美術に書かれている仮名文字は、変体仮名という文字で書かれており、さらにその字をくずして書いていますので普通の人はほとんど読めないと思います。その仮名の元になった漢字の事を字母と言います。
例えば、「あ」の字母は、「安」、「阿」、「亜」、「愛」、「悪」など沢山あります。一つの平仮名に対して字母が一つであればまだ分かりやすのですが、残念ながら沢山あります。

乾山作品に良く出てくる「紅葉(もみじ)」と書く場合、手元にある百人一首の本の中では、次のように書かれています。
・「毛美知」⇒ No.5:猿丸大夫、No.24:管家、No.32:春道列樹
・「裳見知」⇒ No.26:貞信公
・「毛三知」⇒ No.69:能因法師
というようにいくつかの字母の中から自分の好きな文字を選んでいます。この字母の選び方にその人の教養と個性が現れると言われています

前掲の図録のP84-P85に福岡市美術館所蔵の「茄子図」という乾山作品があります。
左側の絵の中に書いてある文字の字母を拾って右側に書いておきました。
nasuzu001.JPG
読み方は、「なれ茄子 なれなれ茄子ひ なれなすひ ならすは棚の 押し絵ともなれ」 と読みます。

単に歌の意味を伝えるだけであれば全部ひら仮名を使えば良いのですが、この絵で乾山は、「」の字については、「」、「」、「」、「」の3種類の字母(4種類の字体)を使い分けています。同じように、「」の字については、「」、「」、「」の2種類の字母(3種類の字体)を使い分けています。
この字母、字体の使い分けがこの絵の見どころの一つになっていると思います。

さて、もう一つの例を紹介します。前掲の図録のP45に掲載されている4種類の「拾得図」です。これは帚を持った拾得が後ろ向きで立っている細長い絵で、賛が添えられています。
どれも書いてある文章は、「をのつから はらはぬ帚もつ人の こころのそらに塵はなきもの」という同じ内容です。それぞれの拾得図の字母拾って表にまとめてみました。3つ以上の絵で共通の字母のところはグレーバックにしています。(図録の写真が小さいので、細かい部分で読み間違いがあるかも知れません。ご指摘頂ければ幸いです。)
拾得図字母.JPG
それぞれの絵の字母の番号と図録の番号は、①K-193 ②K-191 ③K-192 ④K-194 です。③は畠山記念館蔵と書いてありますが、それ以外は個人蔵のようです。
上の表を見ると絵によって字母や字体がかなり違っています。これを見ると同じ人が書いても字母が異なることが分かります。
また、上記④は帚の描写と「乾山」の銘を見る限り乾山の作ではないと思います。しかし、④の字母が他の絵と全く異なるかというとそんな事はありません。これを見ると「人によって使う字母が違う」と本当に言えるのか? と考えてしまいますね。
写しや贋作を制作する時には当然オリジナル(あるいはその写真)を見て書くでしょうから、字母も字体も似せて書くことになり、同じ字母になるのは当然のように思います。そう考えると、④の絵のオリジナルがどこかに存在していた可能性がありますね。

さて、同じ作者が同じ画題で文章を書いてもこのように字母が異なっている理由は何なのでしょうか? その理由を考えてみました。

①その時の気分によって使用する字母は変わる。(「に」、「の」、「は」など)
②一度に同じ絵を何枚も書いたため字母を変えたくなった。

というのはどうでしょうか? ①の理由だと字母によって書き手と特徴の比較はあまり意味がない事になってしまいますね。個人的には、②が理由ではないかと思っています。乾山は職人ではなく芸術家なので、お客さんに依頼されたとしても同じ絵を同じ文字で何枚も書く事には耐えられなかったのではないでしょうか。

まあ、素人の戯言ですから、どなたか御存じの方がいらっしゃれば教えて頂ければ幸いです。
いずれにしても、同じ人が同じ文章を書いても字母が大きく異なる事があるという良い例だと思います。

*もし乾山の文字、字母に関連した読むべき書籍、論文等があればご教授頂けると幸いです。

乾山の書に関しては、こちらもどうぞ。
・琳派 尾形乾山の書を考える その2 乾山の字母について

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陶工 尾形乾山は本当に素人か? 『「琳派」最速入門』を読む [尾形乾山]

「琳派」最速入門: 永遠に新しい、日本のデザイン (和樂ムック)


今回は、ムック本です。
「琳派」に関する入門書です。


この本は、「琳派」の入門書ですが、困った事に一番重要な「琳派」の定義が書かれていません。
「琳派」は当時最新流行の、洒落たインテリアやモードだったのです。
光悦宗達から100年後。同じく京の尾形光琳乾山の兄弟がこの美の様式を受け継ぎます。さらに100年後の19世紀、江戸の酒井抱一や鈴木其一といった絵師たちが「琳派」を継承していきます。
当たり前ですが、光悦や宗達、光琳や乾山が自分達の芸術が「琳派」だと思っていた訳はありません。あくまでも後世の誰かが説明しやすいように名付けてそう呼んでいるだけです。
そのため、研究者の中には宗達を琳派と呼んで良いのか? と疑問を持っている方もいます。
「宗達は本当に琳派か? 俵屋宗達 琳派の祖の真実 古田亮著 を読む」(http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2013-06-23

さて、この本の内容ですが、なかなか面白くまとまってはいますが、尾形乾山に関してはクレームを付けたいと思います。この本の62ページに乾山の記載があります。その題名が、

偉大なる素人 尾形乾山

というものなんです。これってひどい表現だと思いませんか?
乾山本人が聞いたら絶対に怒ると思います。

では、この作風はどこからきたのでしょうか。実は、乾山が陶芸の素人だということが、大きな要因になっています。
日本のやきものはいつも素人が大変革を起こしてきました。乾山はそのさきがけで、明治以降では川喜多半泥子や北大路魯山人などもまた、偉大なる素人でした。彼らにはプロにない大胆でとらわれない発想ができます。ゆえに新しい風を起こすことができたのです。

確かに乾山は37歳という高齢で陶工になりました。しかし、どんな陶工でも最初は素人です。
乾山の章を書いた人は、乾山は一生「素人」だったと言いたいのでしょうか。乾山は81歳で亡くなっていますので、鳴滝で作陶を初めてから44年間を陶工人生を歩みました。44年間作陶して作品を作り続けた人を「素人」と呼ぶのでしょうか?

乾山がそれまでの焼物の世界に大変革を起こした事は確かだと思います。しかし、それは決して乾山が「素人」だったからではないと思います。乾山がそれまでの陶工とは違う新しい発想とセンスを持っていたからではないでしょうか?

半泥子や魯山人は、陶工として生計を立てたわけではありませんので「素人」と呼んで良いと思います。しかし、乾山は鳴滝以来、助手や協力者を含めた乾山窯を経営して生活を維持し、死ぬまで陶工として生きました。そのようなプロ中のプロである乾山をどうして「素人」と呼べるのでしょうか?

筆者は、鳴滝時代、二条丁子屋時代、入谷時代のどこまでが「素人」で、どこの時点を「初心者」、「熟達者」、「達人」などと定義するのでしょうね。(笑)
鳴滝時代は13年あります。普通は一つの道に職業として10年以上専念した人を「素人」とは言わないでしょうから、筆者は鳴滝時代の初期の作品を「素人」の作品と言いたいのでしょうか? その乾山が素人の時に作った作品を特定できるのであれば是非教えて欲しいものです。(^^)

もし、陶工である乾山を「素人」というのであれば、本阿弥光悦こそ本当の「素人」ではありませんか? 彼はある意味で乾山よりも素晴らしい作品を残していますが、陶工ではありません。彼の陶芸作品は、色々な分野ですばらしい才能を発揮した彼が、手慰みで造ったものです。
また、単に陶工として窯を築いた時期が37歳と遅かったから「素人」なのだというのであれば、40歳の時に絵師となった兄の光琳も「素人」ではありませんか?
しかし、光悦や光琳が「素人」だという説は聞いた事がありません。

この、「乾山、半泥子、魯山人の三人の素人が日本のやきものに変革を起こした」という主旨の事は中島誠之助さんも良く話をしますが、私はいつも疑問に思っていました。

乾山本人が聞いたら怒るような事を言うのはもう止めませんか?

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乾山焼入門

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「乾山 見参! 着想のマエストロ」 を読む [尾形乾山]

Kenzankenzan.JPG




2015年5月27日~7 月20日まで東京ミッドタウンにあるサントリー美術館で開催された「乾山 見参! 着想のマエストロ」の図録をようやく入手しました。
この展覧会は、「乾山 見参!」というオヤジギャグはいまいちですが、充実した作品が揃った良い展覧会だったと思います。
しかし、実施の時期が乾山の生誕352年目という中途半端な時期です。生誕350年を狙って2013年に行っても良いレベルの展示会だと思いますが、なぜずらしてのでしょうね?

この展覧会は初日に見に行ったのですが、図録は「まあ、次に来た時に買えばいいか...。」と思ってその時は買いませんでした。ところが、その次の展覧会の時にサントリー美術館のショップに行って確認すると、図録はすでに売り切れたとのこと。しまった! という感じです。しょうがないので、ヤフオクで探してようやく入手することができたいう次第です。

この図録の巻頭に、乾山研究の第一人者である竹内順一先生が、「乾山焼の技法と意匠を考える」という一文を寄せています。これがなかなか興味深い内容なので紹介したいと思います。

竹内先生の考える乾山焼の代表作に関して書いています。
乾山焼技法と意匠の粋を尽くした作品を、言い換えれば、乾山焼の代表作を挙げよと言われれば、躊躇なく「色絵龍田川文透彫反鉢」(出光美術館蔵)など、透彫の反鉢の一群を挙げる。

これは意外です。私のイメージでは乾山と言えば、光琳絵付けの角皿の一群を思い浮かべますが...。
京焼の歴史をたどれば、やきものの内側にも文様を施すのは、乾山焼以前にはなかった。 (中略)この反鉢は、龍田川文がどこから見ても、川の流れとして表現されている。これが立体であり、これを表現できる人物を、「立体アーティスト」と呼んでも良い。

たしかにそうですね。乾山作品には、作品に裏側にも絵付けされているものが多くてどうやって絵付けしたのだろう? と思うような作品も多いですね。そして、作陶に関する乾山自身の関与に関しても書きます。
尾形乾山が作陶のすべてを担当したのか、あるいは作陶のある一工程を担当したのか。実際のところ、これほど有名な“陶芸家”でありながら、また、これほど多数の乾山焼が伝存していながら、さらにいえば、技法と意匠に触れながら、この疑問に対する解答はいまだにはっきりしないというのが筆者の率直な述懐である。

そして、いつも私が先生の言葉として引用させて頂いている言葉です。
乾山自身が「作陶」に直接関与し、製作過程に乾山の「手の痕跡」のようなものがある作品はない。例えば、乾山が挽き上げた轆轤成形の製品と推定できるものはない。

次の言葉は、竹内先生の魂の叫びのように感じました。
乾山が描いた「絵」のある作品に出合えないだろうか。

そして先生は、「これは、乾山焼きの魅力を知った人々が等しくいだく望みである。」と続けますが...。

これはどうなのでしょうか?
少なくとも私たち乾山焼の魅力に魅了された一般の人たちは、乾山がすべて自分で作画、作陶したものと考えていると思います。今回の展覧会の図録を見ても、竹内先生のこの一文以外に、「乾山は絵付けをしていない」、「乾山の作陶ではない」という「明確な」記載も示唆もありません。(もしかすると、どこかには書いてあるのかも知れませんが、少なくとも普通に読めば分かりません。)
乾山作品の所有者や専門家たちにしても、実際には乾山が作画、作陶していないことを知っていたとしても、それを明確にすることによって乾山作品の価値が下がることを懸念してあまり言えないのではないのかと推察します。(研究者ではリチャード・ウィルソン氏が米国の美術館の所蔵品について乾山自身の作品、工房作品、弟子の作品等の鑑定を行っています。日本では無理でしょう。)

例えば、ガラス工芸のガレの作品を考えてみると、ガレ自身の作品とガレ工房の作品では作品の価値(値段)が全く違います。乾山の所有者達が、乾山作品と乾山工房の作品を明確にしたくない気持ちは分かる気がします。

最後に先生は、先生が乾山の作画であろうと考える作品について書いています。
底部に「正徳年製」の銘がある「銹絵柳文重香合」(大和文華館蔵)の「柳の絵」は、あるいは、乾山の筆になるかも知れない。

そして、最後の最後にすごい事を書いています。
なぜなら、香合全体を立方体という「塊」として把握できず、柳を一面一面に描き、「平面の絵」の連続と見る、つまり、「平面アーティスト」の描く柳文であるからだ。乾山は、「立体アーティスト」ではなかった。

以上を簡単にまとめると、
①現在、乾山作品と言われているもので明確に乾山が作画、作陶した考えられる作品は特定できない。
②乾山焼の代表作は、色絵龍田川文透彫反鉢など、透彫の反鉢の一群である。
③反鉢の作画は、「立体アーティスト」にしか書けない。
④乾山は「立体アーティスト」ではない。
⑤乾山焼の代表作である反鉢は、乾山の作画ではない。

ということをになります。

なんとも大胆な発言だと思いますが、さすが乾山研究の第一人者ですね。
今後のご活躍を期待します。

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乾山 KENZAN―琳派からモダンまで尾形光琳二代目 乾山淡交別冊 仁清・乾山 2011年 08月号 [雑誌]
乾山焼入門


佐野乾山はホンモノだ! 岡本太郎の見た佐野乾山 美術手帖 1962年8月号 を読む [尾形乾山]

2 (3).JPGこれまで探していて入手できなかったこの本をようやく手に入れることができました。50年以上も前の本です。

美術手帖 1962年8月号の中に寄稿されている、
「生活者のイメージ 琳派と自然 佐野乾山展をみる」 岡本太郎

新発見の佐野乾山が話題になった1962年6月、芸術新潮が「佐野乾山」展を企画して新発見の作品と資料を東京と大阪で公開しました。これは、芸術新潮の編集部が、「実際にそれらの作品を見る機会を得た人は意外に少ない。そして、噂話にひとしいような真贋論議が実物に則した研究に先走ってしまった。」という問題意識を持って企画したそうです。(素晴らしい!)

今回、紹介する岡本太郎氏の手記は、この「佐野乾山」展の作品を見てその感想をまとめたものです。この手記に関しては、佐野乾山に関する資料には必ずと言っていいほど引用されています。
例えば、白崎秀雄著「真贋」には、以下のように引用されています。
(前略) 会場に入るなり、意外な思いだった。 二つ三つと見るにつれ--なかなかイイジャナイカ。--色が鮮やかなハーモニーで浮かび上がっている。筆さばきも見事だ。(中略) 気どりやポーズ、とかくやきものに見られる枯れた渋み、いわゆる日本調みたいなものがない。(中略)いきいきした線、タッチ、そのリズムが何となくモダ―ンな感じで、ふとピカソやマチスのデッサンを思いおこさせる奔放な表情があったりする。(中略)さてこの展覧会は、真贋のうるさいセンギに決着をつける為に計画されたのだろうが、そんなことどうだっていい。たとえニセモノだって、これだけ豊かなファンテジーのもり上がりがあれば、本ものより更に本ものだ。
これを読むと岡本氏がホンモノ派であることは明白ですが、どの程度乾山の真贋について考えているのかは良く分かりませんでした。

前置きが長くなってしまいました。それでは、岡本氏の記載を紹介します。

岡本氏は、佐野乾山を見るまで光琳は評価していましたが、乾山はまったく評価していなかったようです。この前提で読まないと前出の引用部分の意味合いが良く分からないと思います。
(略) 光琳の絢爛として厳粛な、一義的芸術、その激しい格調、ロマンチスムにふれ、つき動かされれば動かされるほど、私には弟の乾山の仕事が面白くない。趣味的な弱さ、低さ。時おりふれても眼をみはらせるほどのものではなかった。才人の職人芸だ、と無視していた。
近ごろ「佐野乾山」と称するやきものが大量に発見され、真贋問題で大へん騒いでいる。そういうニュースを見聞きしても、そんなことどうだっていいじゃないか、馬鹿々々しい沙汰だとしか思えなかった。従って今度の展覧会にも、「乾山」を確かめに出かけるほどの熱も興味もなかった。ところが編集子のいささか強引な案内もあり、たとえつまらぬものでも日本文化の一つの証拠として、やはり実見しておいてもよいぐらいの気分で行って見た。
(下線は引用者による:以下も同様)
ここから上に挙げた引用文につながります。岡本氏は佐野乾山を見て、乾山を見なおしたようです。
会場に入るなり、意外な思いだった。
二つ三つと見るにつれ、--なかなかイイジャナイカ。--色が鮮やかなハーモニーで浮かび上がっている。筆さばきも見事だ。見て行くほどに楽しい気分になった。
気どりやポーズ、とかくやきものに見られる枯れた渋み、いわゆる日本調みたいなものがない。のびやかに、なまなましい。若い。
(中略)
「乾山」を見なおした。やきものの効果を、小憎いほど心得ており、つぼやさわり、味いを存分に駆使しながら、やはり純粋に絵具の色、線の面白さを打ち出している。つまり絵として、楽しめる。
ここから佐野乾山の作品に関する記載ですが、ここに書かれている印象は、私の抱いた印象とまったく同じでした。
真剣とも遊びともつかない奔放なタッチ。いかなる技術的アクシデントもおそれていない。(中略)
サラサラと落書きのような気軽さで描き上げたものでも、何か形としてかたまり、そして完結している。松、梅、菊、朝顔、茄子、みんなそうだ。線が流れっぱなしになってしまわないで、必ず出発点に回帰して来る。もの、実在物の強靭なシルエットのまとまりを見せている。自然の趣ではない、別な実体を浮き彫りしている。そういう形態を生かす技術である。
ここから岡本氏は、当時話題になっていた「佐野乾山」の真贋論争に関する持論を展開します。学者や骨董商が重要視している「落款」や「故事来歴」、それを根拠にしたニセモノの芸術に関して徹底的に批判します。
さてこの展覧会は、真贋のうるさいセンギに決着をつける為に計画されたのだろうが、そんなことどうだっていい。たとえニセモノだって、これだけ豊かなファンテジーのもり上がりがあれば、本ものより更に本ものだ。まったく、骨董品として商売の種にしたり、美術史的に鑑定なんかする、にぶい御連中の、芸術感覚から浮いてしまった馬鹿々々しさには腹も立たない。
繰り返していうが、芸術にとっては実在するものの豊かさだけが本ものなのであって、落款とか故事来歴の信憑性などは、些末な問題だ。それにつけても、考えるのは、われわれの周囲にあまりにも「芸術」と称するニセモノが多いということ。極めてわずかな本ものしかない。たとえ高名であり、大へんなものだとされていても。そういうニセモノにならされて、むしろ「芸術」本来の感動を見失っているから、こういう騒ぎもおこるのだ。

今回、岡本氏の原文を読むことができ、かなり真剣に佐野乾山をホンモノだと感じていることが分かり、安心しました。そして、佐野乾山を見た岡本氏の印象が、私の感じた印象とまったく同じであることを知りうれしくなりました。
同じくホンモノ派であったバーナード・リーチ氏は、森川氏所有の佐野乾山を見て、「一目見て本物と思うばかりでなく、私が今まで見たなかでもっともすばらしい乾山の焼物です。」とコメントしました。これはすごい発言です。なぜなら、リーチ氏はこれまで名品と言われていた鳴滝時代の光琳絵付けの乾山作品を含めて、佐野乾山の方がすばらしいと言っているからです。このコメントに関して、私はこれまで「それはちょっと言い過ぎでは?」と思っていましたが、今回の岡本氏の書かれた内容を読むと岡本氏もリーチ氏と同じ意見であることが分かりました。
やはり美術品は見る目がある人が見なければダメだ、そして佐野乾山を評価するには「絵が分かる人」でなければならない事を再認識しました。
最近の本を読むと、リーチ氏の佐野乾山に対する見解、発言はリーチ氏の芸術人生の中の汚点であり、晩節を汚したというような扱いをされているものが多いですが、私はそのような評価をする人たちの見識を疑います。

岡本氏は鳴滝時代の乾山の作品(光琳が絵付けをしたもの)をまったく評価していなかったようですが、「光琳は評価していたのでは?」と思って読み進むと、
陶器や団扇に描いたものなんか、つまらぬものが多い。やせていて、これが同じ光琳かと思うくらいだところでここに見られる乾山の方は楽に描きちらしていて、自由で豊かである。
と書かれています。光琳の「紅白梅流水図」「燕子花」などは傑作と評価していますが、乾山の陶器に対する絵付けに関しては、まったく評価していないようです。納得ですね。バーナード・リーチ氏もこの点を指摘していたのだと思います。
1960年代当時の乾山作と言われていた作品は、よく知られている光琳絵付けの作品以外は現在の眼で見ると「?」なものが多かった状況です。玉石混交の乾山作品の中で、玉である光琳絵付けの作品を評価できないのであれば岡本氏が乾山の作品を「才人の職人芸だ、と無視していた」ことも当然のこととして納得できます。私たちも「光琳の絵付け=傑作」という一般的な思考を見なおすべきかも知れません。

私は、この岡本太郎氏の一文に芸術品としての佐野乾山の素晴らしさのすべてが書かれていると感じました。現在、この重要な一文があまり重要視されていないことを不思議に感じました。

佐野乾山に関しては、このK's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm

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「佐野乾山事件とバーナード・リーチ」 豊口真衣子著 を読む [尾形乾山]

今回紹介する本は、普通の本ではありません。東京大学比較文学・文化研究会から1998年に出された論文です。私は、東大から小冊子を購入しましたが、最近では、WebにPDFがUpされています。
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/48878/1/CLC_15_004.pdf

前回紹介したような産経新聞の記事が出される前、佐野乾山について語られることがほとんどない状況で、この論文が出されたことに関してはある程度の意味があったと思います。佐野乾山事件に関する経緯が簡潔にまとめられていますので佐野乾山に関して何も知らない人が読む入門書としては、当時の状況が把握できて良いと思います。

ただし、論文の結論・内容に関しては...残念です。
私は常々佐野乾山に関する記載で、「国会での言論統制」に関して記載のない物は評価するに値しない、と考えています。その意味でこの論文は、わたし的にはここで「終了!」です。

この論文の結論は以下の通りです。
・リーチの名はメディアに頻繁に登場する。
・佐野乾山事件が紹介されるときは必ずリーチが言及される。事件を大きくしたのも複雑にしたのもリーチだ。
・リーチが本物説を唱えたことは本物説論者にとって大きな安心感を与えた。
・リーチは新佐野乾山、日本の動向に関して限られた情報しか与えられなかった。本物説論者によって利用されていた面がある。
・結局、リーチは本物説、偽物説の両方から利用された

豊口さんは古美術業界に詳しくないようですが、それにしても佐野事件に対するとらえ方があまりにも表面的すぎます。論文のテーマの取っ掛かりとして、リーチの役割に目を付けるのは良いでしょう。もしかすると、事件の登場人物で唯一知っている名前だったのかも知れません。

事件の発端となった発見者の森川氏の家族にまでインタビューするなど、過去の経緯を綿密に調査しているにもかかわらず、なぜこの真贋事件の核心である国会文教委員会での議論に到達しなかったのでしょうか? 通常は、白か黒か結論が明確になるはずの真贋事件で「日本最大の真贋事件」と言われた佐野乾山事件だけが、なぜグレーと判断されてそのまま30年以上(論文執筆当時)も放置されているのかと不思議に思わなかったのでしょうか?

その国会の文教委員会で行われたことは、東京国立博物館の林屋晴三氏、京都国立博物館の藤岡了一氏、東京大学の山根有三氏などの真作派に対する言論の弾圧でした。これによって佐野乾山に関する学問的な研究の道が閉ざされてしまいました。このことこそ豊口さんが大学の論文で取り上げるべき重要なテーマであったと思います。

事件当時から佐野乾山を調査してきた渡辺達也氏の「尾形乾山の見極め」には、地元高校の教諭であった渡辺氏にも圧力がかかっていたこが記載されています。
おそらくこれは篠崎源三氏の差し金だろうが、著者は昭和三十八年(1963)年十月五日、六日の二日間にわたって壬生町の常楽寺境内の具慶尼庵址及び乾山作陶窯址の発掘を壬生高等学校美術家生徒の教育の一環として実施した。その後、県教育委員会から佐藤金作学校長を通じて、「佐野乾山問題から手を引くように」との圧力があり、日本美術史上に関わる専門のことであるからと、拒否したことがあった。(同書 P118)
昭和39年1月に宇都宮市の東武デパートで「乾山展」が行われました。この時、栃木新聞社が新聞紙上で展示品の佐野乾山を紹介しました。その作品解説は、地元の研究家である石塚青我氏が担当しました。
しかし、石塚氏は、私に「実は解説文は全部林屋晴三君が書いたんだよ。ただ名前を出せないので僕の名前にした」と言っていた。文部省の干渉が影響したといえる。(住友慎一、渡辺達也「尾形乾山手控集成」P404)

ちなみに当時のマスコミも、「国会で議論された」と書いていましたが、何を議論したのかに関しては何も報道しませんでした。私は当時のマスコミがこの問題を報道しなかったことが、佐野乾山をグレーにした元凶だと考えています。産経新聞も、今回のように今まで知られていた陶磁製方の寄贈の話を大々的に報道するのではなく、このような真贋事件の本質に関してきちんと報道すべきだと思います。

その他、豊口氏の記載に関して一言、二言...。
①リーチは真作派であったが、常に贋作である可能性を挙げて逃げ道を用意していた。
はっきり言って、300年以上前の美術品に関して絶対確実な真作の根拠などありません。ですので真面目に考えている人ほどその発言は慎重になるはずです。リーチの、
(これほど美しいのに)本物でないなら、過去に乾山と同じように偉大な芸術家がいて、絵具も釉薬も手法もそっくり乾山流に作ったか、或いは、信じられないような人物が今日存在しているか」だ」
という発言は、「可能性としてはあるがそんな人は存在しない」という意味で捕えるべき発言でしょう。リーチは、森川氏の佐野乾山を見て、「一目見て本物と思うばかりでなく、私が今まで見たなかでもっともすばらしい乾山の焼物です。」とコメントしたのです。リーチは長年乾山を研究してきて、七代乾山となった人です。そのリーチが、それまで知られている乾山の傑作よりも森川氏の佐野乾山の方が素晴らしいと評価したのです。つまり誰もが名品として認めるであろう光琳・乾山の合作よりも素晴らしい贋作を作ることができるような陶芸家が存在するとは考えられない、という当たり前のことです。

逆に、贋作派の代表である加瀬藤圃の、
真乾山とは似ても似つかない下手物であることは明瞭である。
森川氏は、まづ第一の明き盲で、これを絶賞して已まなかつた美術史家の数氏は、尚一段の半鑒耳食の徒である。その愚劣低見論ずるに足らぬヘボ学者である。二世紀以前の作品と今窯から出たばかりの下劣醜陋なるものとを辨別が出来ぬとあつては、今までなにを勉強されていたのかといいたい。
という断定的で自信満々のコメントほど、眉毛が濡れるほど唾をつけて疑ってかかるべきものだと思います。

②リーチは陶芸家としては唯一真作派であった。これは、日本では佐野乾山に対する反対意見が大勢を占めているという正しい情報を与えられなかったからだ。
贋作派の中心は日本陶磁協会でした。陶磁協会は、陶芸家や骨董屋、文部技官などが会員となっている大きな団体で、事件当時、陶磁業界で大きな力を持っていたと言われています。佐野乾山に関してその陶磁協会のTopが贋作であると判断したのですから、陶磁協会の会員はその判断に従わざるを得ません。つまり陶芸家たちは自分たちの作品が業界内で売れなくなるリスクを考えると自由に意見を言える状況では無かったのです。その中で、日本の陶磁業界とは関係のないリーチは、陶芸家としては唯一自分の感じた、信じた事を自由に発言できる立場にいたのです。その点を理解できなければ話になりません。
前出の渡辺達也氏の「尾形乾山の見極め」には、以下の記載があります。
私は直接リーチ氏に「富本さんは乾山についてどういっておられますか?」と聞いてみたところ、リーチ氏は「富本は絵もわからないしなにもいわない。いえないのだ。悲しい。」と、親友の富本氏がなにも発言できない立場を知っていて、それこそ悲しそうであった。とどのつまりは富本憲吉氏でさえ、勿論浜田庄司氏でも同じであったろう、日本陶磁協会の傘下にある陶芸家の泣きどころを、リーチ氏はよく知っていて、日本の美術界の狭隘な姿を悲しんでいたのである。(渡辺達也氏「尾形乾山の見極め」P97)

最後に「永仁の壷事件」と「佐野乾山事件」に関して書きます。
佐野乾山に関して論じる時に、「永仁の壷事件」の時に陶磁協会が何をしていたかを一緒に考えなければ状況をきちんと理解できません。
「永仁の壷事件」とは、陶工の加藤唐九郎が作った壺を文部技官であった小山冨士夫が鎌倉時代の古陶として重要文化財に認定しましたが、さまざまな疑惑の声が上がり最終的には唐九郎が「自分が作った」と認めて重要文化財は取り消されました。一般には、小山富士夫は唐九郎に騙されたと言われていますが、実際には、小山も唐九郎も陶磁協会の仲間でした。

佐野乾山事件と言えば、「国会でも議論された」という枕詞が付きますが、実は前の年におこった永仁の壷事件に関しても同様に国会で議論されています。(http://kaysan.net/sano/einin.htm
要は、永仁の壷事件という明確な贋作に関するメンバーどうしの馴れ合いに関しては何の糾弾も謝罪も反省もしなかった日本陶磁協会が、佐野乾山に関しては執拗に贋作だ、贋作だという主張を繰り返していたのです。
このことを知ると「佐野乾山に関してそれだけ言うのであれば、なぜ永仁の壺の時にきちんと贋作だと糾弾しなかったのか!」と言いたくなります。それこそ、前出の加瀬藤圃が指摘した「二世紀以前の作品と今窯から出たばかりの下劣醜陋なるものとを辨別が出来ぬとあつては、今までなにを勉強されていたのかといいたい。」という言葉をそのままお返ししたいですね。(^^)

【追記】
国会文教委員会での議論に関しては、基本書とも言える白崎秀雄氏の「真贋」「新発見・佐野乾山」(昭和40年)に記載がありますし、詳しい内容については国会のHPで議事録を読むことができます。

さて、産経新聞の佐野乾山報道ですが、きちんと本質までたどり着くか見守りたいと思います。

乾山に関しては、こちらもご覧下さい。
・乾山と言えば色絵陶器です! 「国際写真情報 」 を見る
・佐野乾山の真実! 尾形光琳二代目 乾山 細野耕三著 を読む
・佐野乾山は美しい! 骨董のある風景 青柳瑞穂著 青柳 いずみこ 編 を読む
・藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む
・「開運! 何でも鑑定団」の鑑定士の本「ニセモノ師たち」 中島誠之助著 を読む
落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

【佐野乾山に関しては、K's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm)】

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佐野乾山の新聞報道に関して(2015年) [尾形乾山]

2015年11月26日の産経新聞に何十年か振りに佐野乾山に関する記事が掲載されました。

世紀の真贋論争「佐野乾山」解明へ 栃木の旧家で自筆伝書と陶器発見

お! 佐野乾山の新資料が見つかったのか! とビックリしました。
しかし、記事を読んでみると乾山の書いた伝書「陶磁製方(佐野伝書)」が所有者から佐野市に寄託されたという内容です。な~んだ。佐野伝書は、新発見でも何でもなく昔から乾山の伝書として真筆として認められているもので、50年前の真贋論争とはまったく関係がありません。
KenzankaigaS1.JPG











KenzankaigaS2.JPG
写真のように1982年に五島美術館で開催された「乾山の絵画」という美術展で展示され、図録にも掲載されています。




新聞記事にも佐野伝書が確認されたのは33年ぶりと書かれていますが、これまで知られていた資料が佐野市に寄託されただけなのに、なぜ
半世紀前の真贋(しんがん)論争事件で美術界最大のタブーとされた「佐野乾山」に、再びスポットライトが当たることになる。」(記事の記載)
につながるのか全く分かりません。
また、佐野伝書とともに素焼きの皿3枚が発見されたそうですが写真を見る限り、私には佐野乾山とは思えません。この記事は、産経新聞にしか掲載されていませんので、「産経新聞もよっぽどネタがないんだな~」と思ってしまいました。(笑)

ところがその後、産経新聞は
●11月26日具体的な記述、由来明確 ゆかりの佐野市が寄託受け入れ 真贋論争の「佐野乾山」史料、栃木で発見
●11月27日尾形乾山「元文2年9月」に佐野へ 有力者の招きで来訪か
●11月28日「佐野乾山」は数点程度か 栃木県内旧家で盗難、所在不明陶器も
●12月2日「佐野乾山」裏付ける貴重な史料 「陶磁製方」の写本も発見
●12月5日真贋論争巻き起こした佐野乾山のもう一つのミステリー 盗難で所在不明の作品は何処へ…

というように、佐野乾山キャンペーンのような記事を連続して書いています。
う~む! 産経新聞は何を意図しているのでしょうか?
記事の記載回数の割に内容は陶磁製方の所有者から取材した内容に留まっており、そこまで引っ張る必要もない内容です。

当初は、50年前の佐野乾山事件にはまったく関係ないと考えていましたが、これだけ新聞ネタになることで、一般の人にも「佐野乾山」の名前が浸透する良い機会かもしれないと思うようになりました。私は50年前の「佐野乾山事件」が風化してしまうことを懸念して地道な活動をしていましたが、今回の記事で少しは人々の記憶に残るかもれしれませんね。

もしかすると産経新聞はまだ何か大きなネタを持っているのかも知れませんね
これからも注目したいと思います。

【2015.12.08:追記】
2015.11.26夕方の記事の内容の間違いを勝手に添削します。(^^)
「所蔵が確認された「色絵夏山水画菓子皿」
 栃木県佐野市で、自筆伝書「陶磁製方(佐野伝書)」や陶器など6点が見つかった尾形乾山は日本画家、尾形光琳の弟で、日本三大陶工の一人としても知られる。だが、晩年に現在の同市で作陶された「佐野乾山」は大量の贋(がん)作(さく)が流通し、研究者や好事家の間では「乾山を見たら偽物と思え」とまで言われる幻の作品群となっている。佐野市は寄託を受けることを決定。美術界最大の謎の一つ「佐野乾山」の全容解明に期待がかかる。」(元の記事)

①尾形乾山は日本画家、尾形光琳の弟で、日本三大陶工の一人としても知られる。
尾形乾山は、日本画家尾形光琳の弟で、日本三大陶工の一人としても知られる。
(元の文だと尾形乾山が日本画家のように読めてしまいます)
②晩年に現在の同市で作陶された「佐野乾山」は大量の贋(がん)作(さく)が流通し、研究者や好事家の間では「乾山を見たら偽物と思え」とまで言われる幻の作品群となっている。
晩年に現在の同市で作陶された「佐野乾山」は昭和30年代に大量の新発見の作品が発表された。当時の乾山研究者や好事家の間では「乾山を見たら偽物と思え」と言われていた中での新発見で大きな話題となった。
(当時発見された佐野乾山は、「贋作」とは結論付けられていません。あくまでも「グレー」です。また、大量に流通したとも言えません。一部の骨董屋、好事家が購入していただけです。「乾山を見たら偽物と思え」というのは、佐野乾山に関して言われたことではなく、当時の乾山(鳴滝・二条丁子屋)などに関して言われたものです。当り前ですが、佐野乾山などに比べて鳴滝乾山などの贋作の方が桁違いに数が多いです。)

新聞報道は、事実誤認が多いものです。みなさんも注意して読みましょう。

乾山に関しては、こちらもご覧下さい。
・乾山と言えば色絵陶器です! 「国際写真情報 」 を見る
・佐野乾山の真実! 尾形光琳二代目 乾山 細野耕三著 を読む
・佐野乾山は美しい! 骨董のある風景 青柳瑞穂著 青柳 いずみこ 編 を読む
・藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む
・「開運! 何でも鑑定団」の鑑定士の本「ニセモノ師たち」 中島誠之助著 を読む
落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

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尾形乾山生誕350周年の展覧会(2013年)を振り返る [尾形乾山]

「琳派」の展覧会と言えば、美術展でも大人気の企画物の一つでしょう。
2008年に東京国立博物館で『尾形光琳生誕350周年記念「大琳派展-継承と変奏-」』という大企画展が開催されました。私も観に行ってきましたが、凄い人で混みあっていました。20万人以上の方が訪れたそうです。

ところが、その5年後の2013年は光琳の弟の尾形乾山の生誕350周年ですが、目立った乾山展は開催されませんでした。今年(2015年)の5月~7月に東京ミッドタウンのサントリー美術館で久しぶりの乾山展『「着想のマエストロ 乾山見参!」展 』が開催されました。かなり大規模な乾山展で、見ごたえがありましたが、「なぜ生誕350周年でこれをやらなかったのか?」と疑問に思います。

さて、実はその乾山生誕350周年の年に栃木県の佐野市で「佐野乾山展」が開催されていました。(2013年12月4日~8日) 私もその展覧会のお手伝いをしていたので紹介します。会場は、佐野市内にある佐野文化会館です。

小さな展示会をやるにはちょうど良い大きさの会場で、30点以上の佐野乾山が展示されました。
sDSCF5770.JPG
















私も佐野乾山を10年以上調べていますが、これだけ多くの素晴らしい佐野乾山の作品を一度に観たのは初めてでした。
sDSCF5769.JPG
















佐野乾山の特徴は、鳴滝時代には見られない乾山の自画自賛の作品であるということです。(鳴滝時代は、光琳などの絵付けでした)つまり、乾山自身が描いた絵と書を見られるということです。
sDSCF5705.JPG
















「まだこんなに素晴らしい佐野乾山が残っていたんだ…」というのが正直な感想です。絵も書ものびのびと描かれていて引き込まれてしまいます。
sDSCF5783.JPG
















今回は、茶碗と角皿が多かったですね。
S1.JPG


























来場された方々のほとんどは、「佐野乾山」の事をご存じなかったようです。
sDSCF5806.JPG













それでも作品に描かれた絵と書の素晴らしさに皆さん感心されていました。
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乾山の賛と落款です。最初「於下毛佐野庄越名河畔 元文二歳焚之」最後「老陶工乾山省」と書いてありますね。表に描かれた絵も見事でした。
DSCF5399.JPG


さて、以上が前振りです。(笑)

一昨年、昨年に続き、今年も佐野で展示会と講演会を開催します。
お近くの方は、ぜひご覧になってください。(今年は作品の展示は10点程度です)

日時 10月10日(土) ~ 10月11日(日)
講演会 13時30分開始
作品展示 10日(土) 13時~17時、11日(日) 10時~17時
入場 無料
場所 佐野市市民活動センター ここねっと (栃木県佐野市大橋町3211−5)
主催:佐野乾山顕彰会

佐野乾山について知りたい方は、以下のブログも参考にして下さい。
・佐野乾山の真実! 尾形光琳二代目 乾山 細野耕三著
・藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む
落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

【佐野乾山に関しては、K's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm)】

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美術品の科学鑑定って? 「X線分光分析」、「やきものの美と用―芸術と技術の狭間で」 加藤 誠軌著 を読む [尾形乾山]


X線分光分析やきものの美と用―芸術と技術の狭間で


佐野乾山事件の時の科学鑑定に関することを書いた本です。
両書とも佐野乾山事件についての記載は1,2ページしかありませんが、学術的な本に書かれたということで決定的な証拠として安易に引用している人もいるので、ここで取り上げてみます。
著者の加藤誠軌氏は、1928年生まれ、東京工業大学卒業、1958年同大学工学部助手、1967年助教授、1974年教授、1989年定年退官とのことです。佐野乾山事件の当時は東工大の助手だったようです。

それぞれの本の記載を見てみましょう。(下線は引用者が付けました)
昭和37年頃、二百余点の「佐野乾山」が新たに発見された。さらに「佐野乾山手控帳」という覚書も見つかった。その当時蒐集家のM氏の依頼で(国立博物館の専門官H氏も同席した)著者がXRF装置で分析した。当時のXRF装置は大きな物体は測定できなかった。そこで、木綿針を数本束ねて焼き物を啄木鳥のようにつついてごく少量の上絵具を採取した。傷跡は漆と顔料で補修した。昔の顔料と現代の顔料を数十種類用意して、それらを標準にして定性分析をした。
分析の結果は、佐野乾山の絵具の顔料は非常に純粋で、昔にあるはずがない顔料も検出した。分析結果はM氏に伝えたが公表はしなかった。著名人士を巻き込んで賛否両論が国会にまで持ち出された「佐野乾山」は偽物であることがこの方法で科学的に証明された。現在では「佐野乾山」の作者も判明しているという。
(「X線分光分析」より)
森川は第一級のコレクターで審美眼や古文書の読解には自信をもっていたが、その上をゆく贋作者がいたわけである。
森川は収集した佐野乾山を内密に処分したらしい。佐野乾山の偽物には巧拙数種類があって、森川コレクションの佐野乾山は本物に近くて古物商でも鑑定が難しいそうである。(中略) ということで目利きや専門家の眼力もあまり当てにできない。つまり軟陶の鑑定はプロにとっても非常に難しいのである。
(「やきものの美と用―芸術と技術の狭間で」より)

佐野乾山の焼物は、素焼きした器に白化粧を行い、絵具で絵付け、画賛・銘を書き、透明釉をかけて窯で焼く「下絵付け」という手法で焼かれています。ですので、上の引用文に「ごく少量の上絵具を採取した」と書いているのをみると、何を採取したのか疑問を持ってしまいます。もしかすると、透明釉の成分分析をしたのか? とも読める記載です。
このように疑問を持つのは、学術書の体裁をとっているにもかかわらず、両書とも解析したデータの記載がないのです。データが無いのに「佐野乾山の絵具の顔料は非常に純粋で、昔にあるはずがない顔料も検出した」と書かれてもコメントのしようがありません。
そして、たとえ用意していた顔料と成分が異なっていたとしても、「用意していた顔料とは成分が違う」としか言えないと思います。それにもかかわららず、「「佐野乾山」は偽物あることがこの方法で証明された」と断言する記載はとても科学者の書いたものとは思えません。
さらに、加藤氏のロジックは、「調査した1点の佐野乾山が偽物だったので、「佐野乾山」は偽物である」というトンデモないものです。このロジックでいけば、鳴滝乾山の贋作を1個調査して贋作だったので、「鳴滝乾山」は贋作であると主張するようなものです。正直言って、東工大の教授がこんな論理構築をするのか? と本当に疑いました。

もうすでにご高齢の方なので、あまり言いたくはありませんが、松浦潤氏のような人が「科学鑑定によって佐野乾山は贋作と証明されていた」などと強く主張しているのであえて書きました。

また、佐野乾山事件の前年に大きな問題となった「永仁の壷事件」についても書かれています。
東京国立文化財研究所の江本義理技官らは、永仁の壷を鎌倉時代から確実に伝世している古瀬戸と蛍光X線分析装置で比較測定した。その結果、釉薬に含まれるルビジウムとストロンチウムの比率がまるで違うことが指摘されて、結果は黒と判定された。
(「やきものの美と用―芸術と技術の狭間で」より)

この事例は、科学鑑定で真贋を判定した事例として書かれることが多いのですが、本当にこの調査で分かるのでしょうか?
①「確実に伝世している古瀬戸」と言われているものは本物か?(そのようなものがあるのか?)
②「確実に伝世している古瀬戸」と言われているものと釉薬の成分が違う古瀬戸は無いのか?
(今後、発掘されて見つかる可能があるのでは?)
というような疑問があります。古陶磁の世界で、科学鑑定の基準となる鎌倉時代からの「確実な来歴」を持つものはあるのでしょうか? また、①に関しては、人間が鑑定したものですから、贋作が混じっている可能性は少なからずあると思います。結局、科学鑑定と言っても、現在本物と言われているものとの比較でしか分からない訳ですから、「本物と言われているもの(基準品)と同じか否か」しか判定できないのです。
この「永仁の壷事件」にしても、唐九郎の告白が無い状態で、科学鑑定の結果だけで贋作と判断されたかどうかははなはだ疑問です。結局は唐九郎の告白の裏付けだけの位置づけだと思います。

まあ、この本はあえて読む必要はないと思います。(笑)

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佐野乾山に関する名著 佐野乾山の見極め 渡辺達也著 を読む [尾形乾山]

mikiwame.jpg故渡邉達也氏の佐野乾山に関する隠れた名著です。
「隠れた」と書いた理由は、入手が非常に困難なのです。私自身も手に入ることができていませんので、友人から借りて読みました。

渡邉氏は1924年に壬生生まれの洋画家です。佐野乾山事件の時は壬生高校で教鞭を取っておられましたが、森川勇氏の依頼で佐野乾山に関わる事となりました。以来、40年に渡り佐野乾山を追ってきた筋金入りの在野の研究家です。

佐野で発見された手控えによると、乾山は佐野に滞在した元文三年に壬生の常楽寺で作陶を行ったと書かれています。渡邉氏は、壬生高校の生徒たちと一緒にその常楽寺跡を発掘調査したことでも有名です。

さて、この本ですが、一般的な佐野乾山の関する記載とは違い、40年に渡る佐野乾山事件の発端からその後までを統括して書かれており、佐野乾山を研究する上では必見の書と言えるでしょう。

佐野乾山事件と言えば、「日本最大の真贋事件」と書く人もおり、「国会でも議論された」などの形容詞が付くことが多い事件です。しかし、その国会で何を議論されたかについては、専門書を含めて書かれている本はほとんどありません。

私は、佐野乾山事件を調べていく中で、国会での議論した内容を読み、この事件の本質を知りました。この国会での議論が佐野乾山事件を「限りなく黒に近いグレー」などという、うやむやな状況においている原因でした。
それは、これから私の拙文を通読下されば、理解していただけるものと思うが、この新発見の佐野乾山で、直接に或いは間接にと不利な立場にある人は口を閉ざすか、贋作説を鼓吹するかであった。まして公的職務にある場合は、昭和37年10月29日の第41回国会衆議院文教委員会において、高津正道議員による佐野乾山問題に関しての質問に文部事務官清水康平氏(文化財保護委員会事務局長)が、国立博物館に国家公務員としての発言に注意したという一事で関係した学者は一切公言できなくなり、他の国公立大学の研究家も同様に佐野乾山問題については触れなくなった。したがって、これを期に贋作説者の一方通行となって、それらの極論者にいわせれば、贋作であったからこそ、真作説が唱えられなくなったのだ、と都合よく逆利用していたのが実情であった。

私の場合、自分で苦労してようやく本質が分かったと思ったすぐ後にこの本を読んだので、かなりショックでした。何だ、ここにちゃんと書いてあるじゃないか...と。
schawan1.JPG












佐野乾山発見当時、有力な真作派であったのは、東京国立博物館技官の林屋晴三、京都国立博物館工芸室長の藤岡了一、東大文学部助教授の山根有三などの人たち、つまり国家公務委員の人たちでした。そして、国会文教委員会で、当時の高津委員が、文部事務官清水康平氏を厳しく問い詰めたことにより、清水氏の意向に沿って、各国立の博物館や国立大学に佐野乾山に関する発言しないような圧力がかかったのです。その結果、真作派は、武蔵野美大助教授だった水尾比呂志以外はほとんど発言がなくなり、贋作派たちの言いたい放題になったのです。

もう一つの重要ポイントは、この本で落合先生の説を取り入れていることです。
私達真作説者にとって、真贋問題から37年を経た現在、まさに”晴天の霹靂”ともいうべきことなのだが、陶磁研究家落合莞爾氏の調査によって判明した事件を第十二章にも少し書いておいた。(中略)戦前(太平洋戦争)から陸軍特務機関員の画策によって、軍費調達のために中国陶磁器及び日本陶器(桃山・江戸時代)の倣陶(贋物)を、その当時の著名な学者や陶芸家を国策にそった協力という形で作陶に従事させたのである。(中略)もちろんこの中の誰かが乾山の作品を作ったことになり、それらの贋作は時の富豪や公私の美術館に売却され、ときには名品の折紙さえつけられて、公然と各展覧会などに出品されているとみられる。

このように、佐野乾山事件の裏には美術以外のいろいろな事柄が複雑に絡み合っていたと言えます。

佐野乾山に関して調べる方には必読の書です。



乾山に関しては、こちらもご覧下さい。
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む
・佐野乾山は美しい! 骨董のある風景 青柳瑞穂著 青柳 いずみこ 編 を読む
・乾山と言えば色絵陶器です! 「国際写真情報 」 を見る
・佐野乾山の真実! 尾形光琳二代目 乾山 細野耕三著 を読む
・藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む
・「開運! 何でも鑑定団」の鑑定士の本「ニセモノ師たち」 中島誠之助著 を読む

【佐野乾山に関しては、K's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm)】

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尾形乾山手控集成―下野佐野滞留期記録 (光琳・乾山関係文書集成)

佐野乾山は美しい! 骨董のある風景 青柳瑞穂著 青柳 いずみこ 編 を読む [尾形乾山]

Sano Kenzan works are beautiful!
青柳瑞穂  骨董のある風景 (大人の本棚)この本は、仏文学者、詩人である青柳瑞穂の骨董蒐集に関するエッセイを孫である青柳いずみこさんが編集した本です。

瑞穂は1899年生まれで、趣味の骨董蒐集で有名になります。特に、尾形光琳の唯一の肖像画である「中村内蔵助像」や乾山の色絵角皿3枚を街の骨董屋から発掘して真作と認められています。瑞穂は、阿佐ヶ谷に住み、気に入った骨董が手に入ると「阿佐ヶ谷会」(中央線沿線の文士の会)のメンバーである亀井勝一郎や井伏鱒二、太宰治などに見せて自慢していたようです。

しかし、昭和初期の頃の文士がそれほど裕福だった訳はありません。瑞穂も自分の金ではなく、奥さんのお兄さんが骨董好きだったことを良いことに、お金を出してもらっていたようです。(ある意味ひどい話ですよね? 笑)

korin.JPGさて、有名な光琳の肖像画の話を紹介します。昭和12年10月、瑞穂の住んでいた阿佐ヶ谷から歩いて30分の青梅街道沿いの古物商で光琳画に出会ったそうです。
佐藤君の店には先客があって、落款を切るか切らぬとかの押問答を交わしていたが、私の知ったことじゃない。(中略)
すると、彼もあまり心証を害された風もなく、その代わり、かけものらしい幅をわたしに渡した。わたしは一端を彼に持ってもらい、一端をとって、すらすらとひらいていった。めくりのままである。(表装のしていない幅、ある意味では、最もみじめな状態)しかし、くりひろげてゆくうちに、賛が出てきた。(賛のあるものには偽物は少ない。)それから、一人の人物が現れた。上畳のうえにきちんと座っている。緑青、胡粉など、色あせているけれど、美しい諧調- 賛などよむ気にはなれず、ただわたしは見惚れていた。(中略)その右隅に落款が見える。落款は「法橋光琳」とある。とっさにわたしは思った。はは、これだな、さっきの切る切らぬは・・・。

TVの「何でも鑑定団」をご覧の方はよくご存じだと思いますが、掛け軸の9割以上はニセモノ、光琳や雪舟など本物が有るはずもないので、そのような有名人の落款が入っていると「ニセモノ」で5千円くらいですが、落款を取ってしまえば、「ニセモノ」ではなくて誰の絵か分からないけど江戸時代の古い絵となるので、10万円くらいに値が上がる可能性があるのです。それにしても、この時、落款を切られなくて本当に良かったと思います。
何せ、今知られている光琳の描いた肖像画はこれだけなのですから、落款がなければ「光琳に肖像画はありません!」と言われてニセモノにされていた可能性が高いと思います。ちなみにこの時に瑞穂は、7円50銭で買ったそうです。今の価値でいうと5万円くらいでしょうか? この絵は、その後、重要文化財に指定されました。

kikyou.JPGそしてその後、瑞穂は京都の三年坂と二年坂の骨董屋で乾山の色絵角皿を3枚手に入れることになります。この時も瑞穂は、乾山に関して、それほど知識があった訳ではないようです。そして、その当時の陶磁界においても尾形乾山に関してほとんど研究が進んでいなかったようです。
乾山といえば、私にかぎらず、おそらく誰でもが思い出すのは、あの東京博物館蔵の「黄山谷」と大倉集古館蔵の「寿老人」の二枚の皿であろう。万人が乾山の真作として認めるのは、今日ではともかく、私が三年坂で桔梗の絵皿を買ったあの頃では、この二つの作品よりほかなかったのである。

そして、瑞穂が道具屋で購入した桔梗の角皿をはじめとする3枚は、すんなりと真正乾山に認定さたようです。これは、その後の佐野乾山事件を考えると少し奇異な感じがします。前述のように、当時は乾山の研究はあまり進んでいませんでした。それにも関わらず、どうして佐野乾山だけは徹底的に批判されたのでしょうね。

そして、いよいよ佐野乾山に関する記載です。驚いたことに、瑞穂は有名な佐野乾山コレクターである森川勇氏よりも1,2年早い時期に同じハタ師の斉藤氏から佐野乾山を入手していました。
shanaire.JPGもう七、八年にもなるであろうか、佐野乾山というものが、一時にたくさん出てきた時、その真偽を争って、骨董商もふくめて世の中が大さわぎしたことがある。ぼくは、幸か不幸か、この佐野乾山にはいち早くお目にかかり、(おそらく、バーナード・リーチ氏以前と思うが)一目見て惚れ、知合いの道具屋の持って来るのを次々に買い求め、いよいよ好きになり、いかに数が増してもあきるということがなかった。さいわい、価も安かったので、ことごとく買うこともできるくらいだった。

ここで書いているバーナード・リーチ氏は森川氏の佐野乾山を見て「間違いなく本物!」と発言しました。このことが佐野乾山事件を有名にしました。これを読むと、瑞穂もかなりの数の佐野乾山を手に入れていたことが分かります。しかし、そのお気に入りの佐野乾山は、あるコレクターにケチを付けられることになります。
美しくもあるし、安くはあるし、ぼくはこんな幸運にめぐまれたのも、こんなものが好きだったからこそとばかり、骨董者のよろこびをひそかに楽しんでいたところ、ある夜、畏友の久志卓真氏がみえたので、いささか得意の気持ちで、同氏に披露した。久志卓真氏はぼくのように乾山好きで、ぼくも彼も鳴滝の乾山を信じ、彼もまたぼくの鳴滝の乾山を信じているような仲だったのである。
その彼がこれはいけないと言ったのである。ぼくはぞっとした。彼が言うには、この種の佐野乾山は町の骨董屋にたくさん出ているとのことである。ぼくはほとんど道具屋めぐりをしないので世間のことは知らず、こんなもの、ぼくだけが持っているつもりでいたのに、それが町にも出ているときけば、ぼくとしてもぞっとせざるを得ないのである。正直なはなし、久志氏の鑑定よりは、ぼくには町に出ていることの方がこたえた。
これにはいささか厭気がさし、全部茶箱に詰めて封印し、もうこれを忘れることにした。支払った金銭よりは、これがいけないことの方がつらかった。

この久志卓真氏というのは、もともとバイオリニストで作曲家だったそうですが、戦前、戦後を通し、陶磁器のコレクターとして知られた人で、中国陶磁器に詳しいようです。私も昭和47年に出版された久志氏の「乾山」を読んでみましたが、そこに掲載されている乾山作品のほとんどは現在では乾山の「真作」として通るものがないと思われます。そのような人が、七世乾山を継承したバーナード・リーチ氏に対して「乾山が分かっていない」というような記載をしています。このような人たちが佐野乾山をニセモノにしたんだと思うと悲しくなります。
どういうわけか、全国の道具商がこぞってこれを締出したために、佐野乾山は商品としては、ほとんど認められない運命になった。これはぼくとして、尾形乾山のためにはいかにも惜しい、残念なことだと思うが、これが偽物にされたことは、ぼくなど骨董者にはもっけのさいわいであった。なぜなら、もしこれが本物にされたら、ぼくの如き貧書生にはとうてい出が出ないからである。おそらく、数十万、いや、数百万もする乾山の槍梅の茶碗などにも劣らぬ、いや、それ以上と思われるものが、ぼくなどにもやすやすと手に入るのである。こんな仕合せがあろうか。

佐野乾山コレクターである住友慎一先生も同様なことを発言されていましたが、この気持ちは分かります。確かに、佐野乾山が本物として認められてしまうと、これまで安価で購入できたものが、一気に数百万円以上の高額になってしまうことは確実です。
佐野乾山が偽物とされたことは、乾山を愛好するぼくは惜しむ、と、いまさっき言ったばかりだが、真に乾山を理解し、愛好する者には、佐野乾山の美しさが分かるはずだと思われるので、こういう人たちの手に乾山がやすやすと入るのも、ひとえに乾山の徳ではないかと、ぼくとしてはかえってそれをたたえたい。つまり、ぼくにとっては、佐野乾山は偽物であっても、それが美しいかぎり、価値があるのである。美しかったら偽物であってもいいのである。そして、これが偽物の名を持つがゆえに、ぼくの如き骨董者の手にも入るのである。ありがたいことだ。

この意見も同感です。コレクターとしては、たとえ本物であったとしても美しくない乾山は買いたくないでしょう。鑑定団の中島誠之助氏が、何かの本で瑞穂に関して「光琳の絵を発見したことで欲が出てきたため、その後は目が曇った」という主旨のことを書いていましたが、私は同意できません。中島先生は瑞穂の書いた文章を読んだことあるのでしょうか?ここに書かれているように、コレクターとしての瑞穂の基準は、「美しい」か「美しくない」かだけです。佐野乾山に関しても乾山で儲けようとして買ったわけではなく、それが「美しいから」買っただけなのだと思います。

そして、瑞穂が佐野乾山が問題となった根本的な理由を書いています。
専門家といっても、しかし、これは陶器の専門家のことだろうか、それとも、絵画の専門家のことだろうか。絵画の専門家は、すでに乾山の絵画作品の幾点かを文化財にしてしている。そうなれば、陶器の専門家が怠慢だということになる。(中略)
陶器の専門家というものは、土質や焼成に重点をおく。一口にいえば、絵は分からなくても、陶器の専門家になり得るのである。ところで、乾山はあくまで絵で、土質や焼成は従である。その点で、むしろ絵画の専門家こそ、乾山を鑑定すべきだろうが、彼等は、陶器とくれば、すぐに土質や焼成を考えて、この点にコンプレックスを感じて、乾山陶を敬遠する傾向がある。後年、佐野乾山問題であんな混乱が起こったのも、要するに、陶器専門家に、そもそもの乾山というものの本質が十分理解されていなかったためだと、私はみている。

佐野乾山事件が起きた時、日本陶磁協会は陶芸家の意見を全面に出して贋作説を主張しました。「器の形が悪い」、「乾山の成形ではない」などなど。もともと乾山の器は、弟子などの工人が成形したと言われていますので、それをもって贋作と言っても何の説得力もないのですが、50年前はそのようなことも議論されていませんでした。乾山の芸術を理解できるのは、陶器の専門家ではなく絵画の専門家であるという瑞穂の主張は、とても説得力があります。
バーナード・リーチ氏は、陶工であり親友である富本憲吉や浜田庄司に関して、「富本は絵もわからないしなにもいわない。いえないのだ。悲しい。」と発言していたようです。

昭和の良き時代の骨董事情を知るにはとても良い本です。

乾山に関しては、こちらもご覧下さい。
・乾山と言えば色絵陶器です! 「国際写真情報 」 を見る
・佐野乾山の真実! 尾形光琳二代目 乾山 細野耕三著 を読む
・藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む
・「開運! 何でも鑑定団」の鑑定士の本「ニセモノ師たち」 中島誠之助著 を読む
落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

【佐野乾山に関しては、K's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm)】

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ささやかな日本発掘 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)青柳瑞穂の生涯―真贋のあわいに青柳瑞穂の生涯 真贋のあわいに (平凡社ライブラリー)

乾山と言えば色絵陶器です! 「国際写真情報 」 を見る。 [尾形乾山]

いわゆる「佐野乾山」事件から50年が経ちました。当時の関係者のほとんどが亡くなられており、この事件が風化してしまうことを懸念しています。
佐野乾山の経緯に関しては、以前このブログで書きました。
http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2010-12-25

当時、マスコミだけでなく国会でも議論された「佐野乾山」ですが、Webも無い時代ですので実物を見たことのある人はほとんどいない状態で、議論されていたようです。そして、贋作派の主張は、「色が多くてそうぞうしい」、「形が悪い」、「絵が真正乾山と違う」というようなものです。
しかし、もともと乾山の作品は、器の成形は弟子に任せたり、絵は兄の尾形光琳に描かせたものがほとんどで、乾山が描いた絵の陶器の作品は特定されていないそうです。しかも、京都の鳴滝時代から25年後に江戸、そして佐野に行くことになりますが、江戸での作品も明確になっていないとのことです。つまり、鳴滝で造った名品から25年後の佐野乾山までの間を埋める作品が分かっていないのです。

富本憲吉氏とともに六世乾山に師事し、七世乾山の皆伝目録を受けたバーナード・リーチ氏は、森川氏が所有していた佐野乾山を見て、「一目見て本物と思うばかりでなく、私が今まで見たなかでもっともすばらしい乾山の焼物です。」と絶賛しています。
私は、最初にこのコメントを読んだ時、「いくらなんでも言い過ぎ。光琳の絵付けした鳴滝時代の作品より良いなんてことはないだろう!」と思いました。そして、当時の作品の写真(ほとんどが白黒)を見ても、その意見は変わりませんでした。しかし、ここで紹介する「国際写真情報」に掲載されている写真を見て、その色絵の美しさに驚きました。やはり佐野乾山の色絵はカラ―で見なければその素晴らしさが分からないのだということを実感しました。
みなさんにもぜひ見て頂きたいと思います。

佐野乾山を見た感想です。
<バーナード・リーチ氏>
これは、素晴らしい! とても現代人にこれだけのものを作ることはできない。わたしはいま、ロンドンで日本が誇る作陶家:ケンザンの図録を編集中だが、この「佐野乾山」を見て、断乎、図録を改めなければならないだろう。ニセモノ説があると聞いて驚いている。滞日予定をのばして乾山研究がしたくなった。

<岡本太郎氏>
2つ3つと見るにつれ、なかなかイイジャナイカ。色が鮮やかなハーモニイで浮かび上がっている。筆捌きも見事だ。(中略)気取りやポーズ、とかくやきものに見られる枯れた渋み、いわゆる日本調みたいなものが無い。(中略)たとえニセモノだって、これだけ豊かなファンテジーの盛り上がりがあれば、本ものよりさらに本ものだ

「国際写真情報」1962年8月号 の記事を紹介します。著作権は切れていますので全文引用します。
(著作権の保護期間は、旧法:公表後33年、現行法でも公表後50年)
kokusaisyashin01.JPG
第二の永仁の壺事件か、世紀の大発見かと美術界の話題をさらってしまった問題の”佐野乾山”はその後どうなったのか。美術ファンならずとも大いに興味をひく事件だけに、当編集部あてには、ひんぱんに問合せがよせられる始末。そこで、本誌では特に所蔵者森川勇氏から、その主な作品を誌上に公開してもらうこちにした。言うまでもなく、その真偽を云々するものではない。あくまでも、読者諸氏とともに”問題の乾山”を目の前に眺めようというだけである。誤解のなきよう、ここに断る。




乾山は発見されつくしたハズ・・・ たきつけたリーチのホンモノ説
さて、問題は今度新たに発見された点数が実に二百数十点(うち森川氏が百二十数点)という莫大な数である。尾形乾山の作品はすでに”発見されつくした”というのがこれまでのが学界での通説であったし、それに二百数十点というのは、これまで流通している乾山を上まわる数字であることから、この発見ニュースはスタートから”奇蹟”だったわけだ。

kokusaisyashin02.JPG
ホンモノ、ニセモノ説に、更に輪をかけたのがバーナード・リーチの”ホンモノ”説であった。今年の新年早々に噂を耳にして森川氏をたずねたリーチは”ビックリ仰天”して、これまで二十年来続けていた研究をすて去り”新発見の乾山作品図録”にとりかかっている。ニセモノ説側にいわせると”いかに陶芸の大家であろうと、外国人に日本の古陶が一目で見分けられるものか”と一笑にふしているものの、リーチのこの発言と行動が、大きな波紋を作りだしたことは事実である。

ながれた新旧乾山の 並列展覧会 ホンモノとなれば大きな社会問題
こうした古美術の真偽鑑定のむつかしさは月旅行もやがて可能だという二十世紀の今日であっても、容易に解決できるものではない。
. ホンモノ、ニセモノ論争は日増しにつのる中で、読売新聞社の主催企画によって、新発見の乾山とニセモノ説を主張する日本陶磁協会側所有の乾山を同時陳列して公開し、いずれがホンモノかを一般に鑑定させようということになった。そして会場も白木屋デパートに決定したが、日本陶磁協会の側が、これに応じなくなり、この興味ある展覧会は流れてしまったのである。


kokusaisyashin03.JPG
これで両者の対決は実現しなかったが、真か偽の論争はその後もはげしくくすぶり続けようやく、国会でも文教委員会で特別小委員会が作られ、乾山問題についての、正しい研究が行われるように配慮されるまでに至った。 しかし、この委員会とて真偽の判定は無理なことだが、問題の乾山が正しく研究されるような気運になりつつあることは好ましいことである。森川氏らの新乾山が、もしホンモノとなると、これは大きな社会問題である。ということは、尾形乾山作は二百数十点しかないのに、倍の四百数十点になる。あくまでも二百数十点しかない乾山としたら、これまでの二百数十点はニセモノということになりかねないからだ。(どういう論理だ?:引用者注)しかも乾山はいずれも一点百万円が相場である。こうしてみると、興味の尽きない乾山騒動だが、それだけに慎重に、公平に、あくまで純粋に見守るべきである。


落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

【佐野乾山に関しては、K's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm)】

"Sano Kenzan Scandal ”

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佐野乾山の真実! 尾形光琳二代目 乾山 細野耕三著 を読む [尾形乾山]

kenzanhyoushi.JPG尾形光琳二代目 乾山



細野耕三氏の「尾形光琳二代目 乾山」の紹介です。この本も20年前の本ですが、とても貴重な本だと思います。

細野氏はTVドラマになった「三匹の侍」などの作品で有名な作家ですが、陶磁器の研究家としても知られており、「桃花紅を追う」などの著書があります。その細野氏が現在も贋作と言われている「佐野乾山」を肯定的に考えて、乾山の陶工人生を描いた作品です。




その細野氏ですが、佐野乾山に関しては、漠然と「贋作」として考えていたそうです。
この作品を書き始める前は「佐野乾山」といえば偽物という漠然とした印象しか持っていなかった。
私は江戸中期の伊万里色絵磁器のような技術的に完成度の高い作品が好きだから、和陶土ものが主流の茶道具に余り興味がなかった。
昭和37年に英国の陶芸家で八代乾山を襲名していたバーナード・リーチ氏が「佐野乾山」十数点を見て激賞した。これがきっかけになって佐野乾山真贋論争が起こった。(実際にはリーチ氏は七代乾山を襲名:引用者注)(中略)
贋作説は何となく一般に定着してしまった。

昭和37年頃に盛り上がった「佐野乾山」の真贋論争ですが、加熱していたマスコミ騒動も次第に熱も冷めて、それに関する報道のなくなっていきました。そして、その真贋論争の決着がつくこともなく、何となく贋作だろうとの雰囲気のままとなっていました。そして、その後学問的に研究を進める人もほとんどなく、一般的には「何となくグレー」という雰囲気ですが、業界的には完全に贋作の扱いとなっていました。

menome.JPG
それから28年、激しい真贋論争があったことさえ極一部の人を除いて忘れられてしまった。だが、この一般の定説化にもかかわらず、新発見の古文書や資料によって学問的に佐野乾山を研究していた人々がいた。
住友慎一氏、国井秀策氏と石塚青我氏である。この三氏は極めて専門的な著書を上梓されていた。佐野乾山を解明する上で十分な科学的に裏付けできる内容のものだった。
私はこれら五冊の本を読んで、このような地味な研究を三十年近くも、私と同じ年代のお三方が続けてこられたその永続的な情熱に畏敬の念を覚えた。同時にそれらの著書の内容から浮かんでくる尾形乾山深省の人間像に感銘を受けた。特に佐野滞在の一年四カ月の日記は涙するほどの感動を私に与えた。

住友氏などの研究の結果は、古美術関連の雑誌「目の眼」1985年6月号で「あの「佐野乾山」を洗う」という特集で有名になり、これをきっかとして、それ以降、精力的に研究成果を出版を続けていました。これらの研究のおかげで、細野氏や貿易陶磁の大家である三杉隆敏や美術評論家の瀬木慎一氏など多くの人が佐野乾山に対する見方を変えたようです。しかし、それからさらに25年以上経ちましたが、陶磁業界での評価に変化は無いように思えます。

過去の経緯を調べてみると、佐野乾山は学術的に議論を尽くして贋作とされたわけではなく、業界の有力団体の力でグレーの方向に持っていかれた印象がありますので、住友氏が著作などで学術的に反論しても効果が無かったのでしょうね。

さて、その乾山ですが、その生涯に関してはまだ分かっていないことが多いようです。乾山研究の第一人者である竹内順一氏は「乾山焼研究随想」として、現在まで残っている重要課題を上げています。(KENZAN 幽邃と風雅の世界 2004年図録より)
  1. 乾山は、なぜ「焼物商売」を始めたか
  2. 乾山焼の典型作品は何か
  3. 乾山はどこまで生産に関与したか
  4. 「乾山焼」の意味は
  5. なぜ、鳴滝窯を廃窯し移転したか
  6. 兄弟合作の制作年代論議はその後活発になったか
  7. 二条丁子屋時代の終焉はいつか
  8. 二町丁子屋時代の典型作品は何か
  9. 土器皿をどうみるか
  10. 鳴滝窯発掘調査の行方は
え~っ!! そんなことも分かっていないの? と思うのは私だけでしょうか。

さて、この本に書かれている乾山について書きます。
京都の有名ブランド呉服店の御曹司であった乾山ですが、37歳の時に京都の鳴滝で窯を開いて陶工としての道を歩み始めます。しかし、上記竹内氏の重要課題にあるように「乾山は、なぜ「焼物商売」を始めたか」に関してはよく分かっていません。一般には、近くに野々村仁清の御室焼窯があったので刺激をうけたのでは? と言われていますが、その動機づけが弱いと考えられます。現代で考えると、自分の家のそばに陶芸教室があればみんな陶芸家になるのか? という素朴な疑問ですね。

そして、その鳴滝窯では、兄の光琳に絵付をしてもらった数々の芸術性の高い名品が生まれることとなります。しかし、その鳴滝窯も13年後の乾山50歳の時に廃窯して、京都市内の二条丁子屋に引っ越します。これも上にあるように「なぜ、鳴滝窯を廃窯し移転したか」については、まだよく分かっていません。さらに乾山が佐野を訪れたことに関しては、さらに分かっていないことが多く、戦前までは佐野に来たこと自体も認められていなかったようです。

「佐野手控帖」の一部
tebikae.JPG
そのような状況でその空白を埋める資料が、佐野乾山真贋事件で問題となった佐野での「手控帖」です。そこには、京都から江戸に行った経緯、江戸から佐野に行った経緯や、佐野での日々の生活、作陶に関することがらがこまごまと書かれていました。それを小説にして書いたものが、この細野氏の本です。

この本では、鳴滝窯は乾山の作品へのこだわりによって経営破たんしたことによって廃窯になり、 その後二条丁子屋で焼物商売をはじめたことが書かれています。その丁子屋時代に、朝廷の実力者である二條綱平卿から(光琳の絵付け+乾山)の庭焼をやりたいとの話が出ます。乾山は非常に積極的に動き、数千両の費用をかけて窯の造営に着手しました。(仁寿窯)
しかし光琳に対して幕府側の京都所司代から、朝廷が経済的に力をつけるような話はけしからん、という理由で止めるようにとの圧力がかかります。朝廷と幕府の板挟みになった光琳は、その事を乾山に話すことができずに仁寿窯の開窯を引き延ばします。そのため、病気のため酒を禁じられていた光琳の酒量が増え、やがてそれが原因で亡くなります。光琳の死去によって仁寿窯の話はご破算となり、乾山は二条家への出入りを禁止されます。

その後、乾山は失意のうちに二条丁子屋で「京みやげ 焼物しょうばい」に専念して、自身や光琳の借金返済することに力をそそぎます。この時代は、「京みやげ」ですのでそれほど高価ではありませんが、皿や向付けなど少し高級な日用雑器を作っていたようです。

そして、享保16年(1731年)12月9日、69歳の乾山は東山天皇の第三皇子である公寛親王が上野寛永寺の門跡として迎えられる一行に随行する形で江戸に出発します。

江戸では、以前兄の光琳がお世話になった木場の大富豪である冬木屋の家の居候となります。冬木屋としては、光琳の弟で京では有名な陶工である乾山を客人とし、商売相手に紹介することで江戸での商売に利用しようと考えていたようです。乾山は、そのような江戸の経済重視の考えになじむことができず、しかも当てにしていた入谷窯も素焼きしか焼けないような貧弱な窯であったため、創作意欲も湧かなかったようです。

そのような生活を6年続けていましたが、佐野の鋳物代官である大川顕道に以前から依頼されていた乾山を佐野に迎えたいという話を冬木屋は断りきれず、乾山は佐野に旅立つこととなりました。この時、乾山は75歳の高齢です。当時の佐野は江戸と日光東照宮を結ぶ中間地点であり、井伊藩の飛び領管轄地として水運を利用した江戸への物資の流通の拠点として非常に栄えていました。当時の佐野は、松村広休が佐野代官、大川顕道が天明鋳物代官、須藤杜川の本家が船奉行をつとめており、それらの人物が佐野での乾山の生活や作陶を援助していました。

しかし、京都に比べると当時の大都会であった江戸でさえ、地の果てに来たと思っていた乾山にとって更に北の佐野へ行くことは苦痛以外の何ものでもありませんでした。手控え帖では、佐野に立つ時に次のように嘆いています。

「佐野乾山の花入れ」
shanaire.JPG江戸に下れば、下野(佐野)へ、そこにまいれば、その先へと、末は、えぞの国までゆきつくやの旅を重ねて年老いてゆくのは、いかなる星のもとに生まれたのか

しかし、実際に佐野に来てみると、そこには江戸にはなかった美しい自然と、江戸以上に教養あふれる人たちとの楽しい交流があり、京の雅があふれる乾山にとって至福の世界があったでした。それを乾山は次にように記しています。

ありがたき哉 佐野の山里
うつくしき哉 佐野の山里


上に書いたように、それまでの乾山の陶工人生は決して恵まれたものではありませんでした。芸術性の追求と生活のための商売の狭間で葛藤していたような人生のように見えます。しかし、その乾山が75歳にして訪れた佐野の地では、佐野に招いてくれた人たちの援助によって、生活の事を考える必要もなく自分が作りたいと思った絵や書を存分に作品の上に描くことができたのだと思います。これまでの約40年にわたる陶工人生の集大成を佐野で開花させることができたのではないでしょうか?

また、このような状況を考えると、「なぜ、江戸期の乾山作品が少ないのか?」、「なぜ、絵画の制作が佐野から江戸に帰った後に集中しているのか?」の答えも出てくるように思えます。
私の意見は、

  • 江戸では、乾山は入谷窯の状況と経済的な理由から乾山が満足のできる作陶ができなかった。
  • 佐野滞在中は佐野の支援者から十分な経済的な支援と作陶環境を与えられて多数の作品を手掛けることができ、これまで以上に創作意欲が高まった。
  • しかし、江戸に戻るとまた自分の満足のいく作陶ができる状況ではなかった。
  • そのため、自分一人で作ることができる絵画にその創作意欲、自分の思いを注ぎ込んだ。
この本では、佐野の須藤杜川や大川顕道などの援助者たちから沢山の作陶を依頼されており、合計4か所の楽焼用の窯を作って対応していたことが書かれています。佐野乾山の発見の数が多い点もこれを読むと納得ができます。また、乾山は登り窯による本焼をやりたかったようですが、時間と労力がかかるため断念したようです。ちなみに現在、陶磁業界で真正の「佐野乾山」と認められている数点の中には、楽焼ではなく本焼の作品があります。これはどこの窯で作ったものでしょうね?

しかし、この本では乾山の弟子が乾山の真似をした作品を作り、それを見た乾山が激怒して割ってしまったとか、乾山が佐野に滞在中に佐野で作った乾山焼きの偽物の話が乾山の耳に入ったというような話も書いてあり、現在私たちが見ることができる佐野乾山にはそれらの多くの贋作・倣作が混在していることを前提で見る必要があります。

最後にブログで紹介した落合氏の「ドキュメント真贋」の中にある、この本に関しての記載を紹介します。
佐野乾山の汚名が晴れたきっかけは、昭和60年代に入って医師住友慎一、弁護士国井秀策の研究と著作が出たからである。作家で古陶磁研究家の細野耕三はそれを読んで感動し、平成2年6月に「二代光琳 乾山」を著した。(中略)和陶の権威者である満岡忠成も「あのときは反対したが、今になって反省している」趣旨の感想を細野に寄せている。(中略)
『芸術新潮』によれば、大手業者筋は今(平成3年)でも「あれは自分たちは認めません。扱いません」と言っている。確かに絵付けの悪い佐野乾山は、全盛期の鳴滝乾山などの名品と同格に扱う商品ではあるまい。だが、大手業者が佐野乾山を認めないというのはそういう意味ではないく、乾山の作品として認めないということである。そればかりか、端的にいえば江戸期の古陶磁とも認めない。要するに「近年の摸作扱い」のままであり、「問題品扱い」のまま30年前と少しも変わっていない。業界の大手筋は、今でも傘下の中小業者に対して「触ってはいけない」「関わり合いになるな」という秘密通達を発しているようだ。

どうも佐野乾山に関しては、学術的にどうのというレベルを超えた力が働いているようですね。真贋事件に対する私のスタンスは、「贋作を真作と見誤ることはしょうがないが、真作を贋作と見誤ることは絶対にしたくない」です。その理由は、美術品の場合、贋作と判定された場合のリカバリーが非常に難しいからです。 したがって、私の書いているものは真作寄りの見方が強いと思いますので、その辺りは割引いて読んでください。

いずれにしても、この本は乾山に興味のある方には必読の書だと思います。

【佐野乾山に関しては、K's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm)】

"Sano Kenzan Scandal ”

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真贋事件に興味のある方は、
・「佐野乾山事件とバーナード・リーチ」 豊口真衣子著 を読む
・藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む
・乾山と言えば色絵陶器です! 「国際写真情報 」 を見る
・佐野乾山は美しい! 骨董のある風景 青柳瑞穂著 青柳 いずみこ 編 を読む
・夭折の画家 佐伯祐三と妻・米子
・マスコミの報道は疑ってかかれ! 「ドキュメント真贋」
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・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

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宗達 光琳 乾山が揃い踏み 琳派芸術 ―光悦・宗達から江戸琳派― に行く [尾形乾山]

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東京の出光美術館で開催されている「酒井抱一生誕250年 琳派芸術 ―光悦・宗達から江戸琳派―」に行ってきました。

琳派展というと、2008年の末に東京国立博物館で大規模な「尾形光琳生誕350周年記念 特別展「大琳派展-継承と変奏-」」が開催されましたので、どうしてもそれと比べてしまいます。そのため、失礼ながらあまり期待していなかったのですが、予想外に良かったです。

琳派とは、狩野派などの流派のように、師匠から弟子へと直接技術を伝承しているわけではなく、本阿弥光悦、俵屋宗達の作品に触発された、尾形光琳・乾山兄弟が自らの作品にその技術、精神を受け継ぎ、さらに、酒井抱一、鈴木其一などがそれを継承した点に特徴があります。つまり、琳派の人たちは師弟関係にあるわけではなく、時代や場所を超えて、作品を通してその技術を継承しているわけです。東博の「大琳派展」では、宗達、光琳、抱一、其一の「風神雷神図」が一堂に会したことで話題になりました。(リンク先のページの下の方にあります)

さて、今回の「琳派芸術」ですが、とても充実した展覧会で、日曜日に行ったのですが、かなりの人が入っていてビックリしました。美術館には、比較的ご高齢の方が多いのですが、今回は若い女性が多かったことにもちょっと驚きました。琳派の感覚って、現代にも通じるものがあるのかも知れませんね。

これは「紅白梅図屏風(左隻) 伝 尾形光琳 江戸時代 出光美術館蔵」です。確かに、梅の枝の描写などは光琳の雰囲気がありますが、あくまでも「伝 尾形光琳」です。つまり、「尾形光琳の作と伝えられている」作品です。この絵は落款がないので、昔は俵屋宗達の筆と言われていたそうです。現在は、光琳の弟子の作とも言われているとのことで、私も光琳の弟子作説に一票入れます。
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宗達といえば本阿弥光悦の書とのコラボレーションが有名です。宗達の下絵の上に書かれた光悦の書がとても美しいですね。私は、書に関してもまったくの素人ですが、この美しさには感動しました。特に仮名の流麗さには圧倒されます。書というよりは、絵画と言ってもよいような美しい作品です。
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でも、私が本当に見たかったのは、尾形乾山の作品でした。今回の会場の所どころに乾山の陶磁器が展示されており、楽しめました。壁に沿って展示されている絵画には、人が鈴なり状態ですが、乾山の作品はその中間のスペースに3方から観賞できるように展示されていますので、人がいても別の角度からじっくり見ることができました。これまで図録の写真でしかみたことのない作品も多く、参考になりました。
どの作品も「意外と小さいな~」というのが正直な感想です。また、写真でみると「これ本当に乾山?」と思っていた物も実物を見ると、やはり乾山の雰囲気が漂っており、「やっぱ乾山だよな!」と納得しました。(笑)

この展示会ですが、第1部は、2月6日で終わりで、その後展示品の入れかえがあり、2月11日~3月21日の間第2部が展示されます。第2部は、酒井抱一、鈴木其一の作品が多く展示されるようです。
琳派がお好きな方にはお勧めの展覧会です。

出光美術館のロビー(8F)からは正面に皇居を見ることができます。皇居の緑とお堀で遊ぶ水鳥にも心が和みますよ。

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藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む [尾形乾山]

今回もコミックです。細野不二彦氏の「ギャラリーフェイク」です。

ギャラリーフェイク (Number.006) (小学館文庫)

私は、あまりコミックは読みませんが、この「ギャラリーフェイク」はお気に入りの一つです。これは、ニューヨークメトロポリタン美術館の元キュレーターである藤田玲司が主人公です。彼は、優れた審美眼と神業的な絵画の修復技術を持っていますが、なぜか贋作を扱う「ギャラリーフェイク」という店を出しています。そして裏では盗品や美術館の横流し品を法外な価格で売りさばくという噂が美術界に広がっています。

その「ギャラリーフェイク」の文庫本006に掲載されている『タブーの佐野乾山』を今回取り上げます。

藤田玲司がひょんなことから三田村館長(藤田が憧れる美人館長)の妹が司会を行っている「ズバズバ!! 家宝鑑定局」に出演することになります。その番組の中で、鑑定依頼された乾山の焼物をめぐって古美術の鑑定師である青山新ノ輔と対決します。
青山:プロのわれわれの間にはこういう言葉があります。乾山を見たらニセモノと思え!! それほど乾山のニセモノは昔から多く作られているのです! そうですな、ギャラリーフェイクのフジタ先生。
藤田:おおせの通り!
    (二人の鑑定額は、青山:5万円、藤田:800万円とでる)
青山:フジタ先生はメトロポリタン出身で、洋画や彫刻にはお詳しいかもしれませんが、この分野は苦手のようですね。日本の骨董は奥が深いのでときに鑑定ミスがあっても当然ですよ!
司会者:するとこの皿は?
青山:まっかなニセモノです。よくできてはいますがニセモノとしてはこんな値段でしょう。
藤田:いや・・・私は本物だと思いますね。それもただの乾山ではなく――真正の“佐野乾山”と見ましたのでこれほどの額は当然だと思います!!
青山:佐野乾山!? フジタ先生墓穴を掘りましたな! よりによって佐野乾山の名前を出すとはおどろいた! その名は骨董の世界ではタブーといっていい! “佐野乾山”と聞いて眉にツバしない専門家はいません!
藤田:何と言われようとそれが私の鑑定です。あなた方にとってはタブーでも私にはどうでもいいことでしてね。
佐野乾山とは人の名前ではありません。琳派で有名な絵師であった尾形光琳の弟で、陶工として有名だった尾形乾山が晩年、栃木県の佐野に滞在した時に作った一連の陶器の名称です。

なぜ佐野乾山が美術界でタブーと言われているかというと...昭和34年頃から業界に流れ出した佐野乾山をコレクターの森川勇氏が買い集めました。森川氏はこのブログでも紹介した名古屋で有名な茶人森川勘一郎氏(如春庵)の息子さんで、親子とも一流の目利きとして知られていました。如春庵は、16歳にして光悦の「時雨」、19歳の時に同じく光悦の「乙御前」を手に入れ、十代で2つの光悦を所有していたというスゴイ人です。そして、勇氏は若い頃より如春庵に手ほどきをうけてその光悦でお茶を嗜んでいたそうです。

その勇氏所有の佐野乾山を陶芸家で有名なバーナード・リーチ氏が新聞紙上で絶賛したところから騒動が始まります。佐野乾山に関しては、専門家である林屋晴三氏 (東京国立博物館)や藤岡了一氏(京都国立博物館)、一緒に見つかった「手控え帳」に関しては、山根有三氏(東大)が本物と鑑定しました。これに大反発したのが、陶芸家、古美術業者などの団体である日本陶磁協会で、機関紙である「陶説」紙上で徹底的に贋作であると主張し続けました。
【佐野乾山:百合の絵茶碗】
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その論争は国会の文教委員会でも議論され、文化財保護委員会事務局長が糾弾されることになりました。その結果、国家公務員である真作派のほとんどのメンバーが佐野乾山に関する発言、論文を自粛・沈黙せざるを得ない状況となってしまいました
その後、美術雑誌などでは贋作派だけが元気に意見を出す状況となり、そのうちマスコミの関心も薄れ、結局「黒に近いグレー」という評価だけが残ることになりました。

佐野乾山に関しては、雑誌などでも恣意的な記載が多いのですが、この「ギャラリーフェイク」は事件当時の状況をよく調べてあり比較的公平な書き方をしています。
さて、「ズバズバ!! 家宝鑑定局」の続きですが、次の週に持ちこされた中島、いや(笑)青山新ノ輔と藤田との対決ですが、詳しく書くと興味をそがれると思いますので書きませんが、高田美術館の三田村館長の助っ人で藤田側の勝利となりました。
ただし、一点気になったことがあります。高田館長は、鑑定に出された乾山と佐野の土で作られた陶器を蛍光X線測定器にかけて、その成分分析の結果が一致しているので鑑定品が佐野で作られた乾山であると判断しています。しかし、乾山のメモと言える「手控え帳」によると、佐野付近の渡良瀬川の土で作陶を試みたことが書いてありますが、土が焼き物に合わず結局うまくいかずあきらめたとのことです。ですので、乾山が佐野の土で作陶したのは、試し焼きの数個程度で、残りは京都から土を取り寄せたり、江戸から素焼きの状態で取り寄せて絵付けだけしたようです。

まあ、細かいことはさておき、この「ギャラリーフェイク」ですが、三田村館長をはじめ、藤田のアシスタントのサラちゃんなど登場する女性がとても魅力的です。その女性陣と藤田との関わりもこのコミックの大きな魅力です。

【ここからは佐野乾山に興味のある方だけお読みください】(笑)
さて、この佐野乾山ですが、私は本物だと思っています。
その理由は、まずは森川親子、バーナード・リ―チなどの目利きが真作と判断したことです。真贋鑑定には それなりの資質が必要です。例えば、デジタル時計や1万円以下の安い時計を何万個持っていたとしても、ロレックスやオメガの時計を鑑定することはできないでしょう。同じようにその辺にある骨董屋の親父さんに乾山を鑑定することはできないでしょう。やはり一流の茶道具や乾山に慣れ親しんだ人でなければ鑑定は無理だと思います。
特に乾山の場合は「贋作だね!」と言えば90%以上は当たる世界ですから、その中からホンモノを探し出すには本当の審美眼が必要となります。その点、十代の頃から2つの光悦を所有してお茶を楽しんでいた如春庵と勇氏の鑑定眼は信頼すべきでしょう。
また、乾山の作品には賛を書くことが多いため、乾山を見るには古筆の知識も必要ですが、如春庵は絵巻物の複製などで名高い美術研究家の田中親美に師事して古筆を学んでいたそうですから、まさに佐野乾山の鑑定にはうってつけの人物と言えるでしょう。
【佐野乾山:百合の絵茶碗(同上)】
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佐野乾山事件当時、贋作派の主張で多かったのは、①これまでの乾山と絵が違ううつわが悪い というものでした。①に関しては、乾山の作品の絵は光琳やその他の絵師によって描かれたものが多く、最近の研究でも作品に描かれた絵の中で乾山本人の絵は特定できていないそうです。また、②に関しては、主に陶芸家が強く主張していましたが、佐野で乾山が自分で土を捏ねていたわけではなく、江戸から素焼きを取り寄せたり、弟子達にやらせていたことが「手控え帳」に書かれています。
つまり、当時贋作派が主張していたことは的外れであったということです。

こう書くと、陶工と言いながら乾山は何をしていたの? という疑問がわきますが、京都時代は乾山窯のプロデューサー的な役割であったということが言われていますが、作品で見ることができるのは、作品に書かれた賛や署名です。私もこれが真贋の重要な鑑定のポイントになると思います。そして、佐野では京都時代と違って光琳や絵師もいなかったでしょうから(すでに光琳は亡くなっています)、乾山みずから絵を描いていたと思われます。
したがって佐野乾山の真贋の観点は、作品の絵や賛、「乾山」の署名のバランスや芸術性で判断することが必要だと思います。

それでは、なぜ佐野乾山が贋作と主張されたかですが、作家の松本清張氏は「泥の中の佐野乾山」の中で、”森川親子と日本陶磁協会の私闘”である、と書かれています。上記のように超目利きである森川親子は、財力もありますので良いものを見つけると業者を通さずに直接取引を行っており、以前から陶磁協会に属する骨董商からはかなり恨まれていたようです。この佐野乾山に関しても、最初に購入してから後は、自分で佐野に赴き旧家に伝来していた乾山を徹底的に買い回ったようです。その当時、真正の乾山は300点程度と言われていましたが、目利きの森川親子が200点以上の佐野乾山を蒐集した訳ですからそれが市場に流れた場合の影響を考えると陶磁協会としては看過できなかったのでしょう。(希少価値を含めて安定していた乾山価格が下落するリスクが高い)

しかし、芸術性が高いと言われている京都の鳴滝時代の作品に贋作が多いように、佐野乾山と言われるものもすべて真作ではありません。乾山が江戸に帰ってから同じ窯で弟子達が作った陶器もかなりあると思われますし、後世の贋作も多くありますのでその分離が重要となります。
現状は、そのような研究は住友先生など一部を除いてほとんどやられていません。

"Sano Kenzan Scandal ”

【佐野乾山に関しては、K's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm)】
佐野乾山に興味のある方は、是非ご覧ください。

佐野乾山、真贋事件に興味のある方は以下もご覧下さい。
・「佐野乾山事件とバーナード・リーチ」 豊口真衣子著 を読む
・藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む
・乾山と言えば色絵陶器です! 「国際写真情報 」 を見る
・佐野乾山の真実! 尾形光琳二代目 乾山 細野耕三著 を読む
・佐野乾山は美しい! 骨董のある風景 青柳瑞穂著 青柳 いずみこ 編 を読む
・夭折の画家 佐伯祐三と妻・米子
・マスコミの報道は疑ってかかれ! 「ドキュメント真贋」
落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

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